容疑者Xの献身

夫が借りてきたDVD。湯川教授(福山雅治さん)と内海刑事(柴崎コウさん)が活躍するお話。東野圭吾さん原作。
夫も私も二人とも休日の金曜日、私がゆっくり目覚めて起きてきたときには、もう、映画は終盤にさしかかっていた。容疑者X(私は男性容疑者がXだと解釈している)の人生に、どれほどの絶望があったのかは、寝起きの私にはわからない。けれど、「すこやかに丁寧に日常を生きる人の存在」を、ふと身近に感じることの、美しさ、いとおしさ、そして、その生きる支えとも呼べるべき存在をいつくしむことの、切なさと哀しさに、いとも簡単に打ちのめされて、寝起きの豆乳紅茶を飲みながら、はらはらと涙する。映画はそのまま終了する。終了直前に作中で見つかった小物について、「これは何?」と夫に訊くが、「なんやろうなあ。わからん。」と言う。この場面でこの大きさで映されるということは、作品の展開上、結構重要なもののはずなのだけどなあ。
というわけで、夫の視聴終了後、私一人で再度見直すことにする。とりあえず、登場人物の関係性を予習しておきたくて、私が寝ていて、そして寝起きで、把握しきれなかったことを、夫に質問すると、「見ればわかるよ。」「それを言ったらネタバレになるよ。」と情報の出し惜しみをする。「私がネタバレをこよなく愛していることを、どうやらくんは、よく知ってるでしょ。あのね、ネタバレっていうのはね、脚本の一言一句や背景の設定まで全部披露してくれない限り、私にとっては全然ネタバレじゃないの。そんなちゃんとしたネタバラししてくれる人は、そうそういないの。よくネットでネタバレ注意、って書いてあるのに、全然ネタがバレてなくて、こっちとしては、脚本の一言一句まで知りたいと思っているのに、なんなの、そのほのめかしは!ネタバレって言うなら、ちゃんとしっかりきっちりとネタバラしてよ!って言いながら、私が暴れてるの知ってるでしょ。だから私、ときどき、台詞や背景をそのまま書き出してくれているサイトを見つけると、嬉しそうに読んでるでしょ。」と畳み掛けたことで、夫はようやく「あの人は、この人の元配偶者で、つきまとわれて困っていた。」と教えてくれた。
それから、安心して、最初から見直す。終盤の、一回目に寝起きで見たところと同じ場面で、やはりはらはらと涙がこぼれる。このシーンの力はすごいなあ、と感心する。これがあれば何杯でもご飯が食べられる何かみたいに、このシーンがあれば、いつでもどこでも何回でも泣けそうだ。
自分の中で何かが滞り、いろんなものを涙に溶かして流したほうがよいかんじがするときには、「容疑者Xの献身」の最終チャプターだけ見るために、このDVDをまた借りよう。
見直しても、寝起きでなくても、容疑者Xの身の上にどんな絶望があったのか、どういう事情の絶望だったのかは、明確に知ることはできなかった。小説を読めばそのあたりを、もう少し深く詳しく知り得るのだろうか。
結局、最初に見たときに、夫に、「これなあに?」と質問した小物は、やはり、結構重要だったように思う。元となっている事件がそこまでずっと明るみに出なかったこと、容疑者Xが護り通したかったもの、そういう諸々をあの小物は作中で語る役割を担っていると思うのだけど、夫は、「そういえば、そんなん、あったかなあ。別にそれが何かわからなくても、話の大筋に問題はない。」という剛毅さ。ミステリーやサスペンスを味わう上で、小物に頓着しない夫は、たぶんだから謎の理解に、ときどき支障を来たすのだろう。けれど、その「頓着しない才能」があるからこそ、彼は、私の夫であることも、こなしてゆけているのかもしれない。