館内引越し

五月二日、朝、旅記録。連泊の朝、いつものように、夫は私よりも早く起きて、買い置きのパンを食べてお茶を飲んで、たぶん野菜ジュースかヨーグルトドリンクも飲んで、旅館内の喫煙所(ソファがあってテーブルに観光情報冊子が置いてあるところ)で煙草を吸う。そのときに宿のおかみさんから、引越し先は今使っている部屋の隣の部屋にお願いします、と説明を受けたらしい。
部屋に戻ってきた夫が、布団の中の私にそのことを説明してくれて、彼としては、「荷物は全部自分が隣に運んで、お布団も新しく敷いてもらって、みそきちは、今寝てる布団の中から寝ぼけたままで這い出して、隣の部屋のお布団に入りなおせばいいだけにしよう」と提案してくれる。けれど、寝ぼけた私は、被害妄想が炸裂して、彼のその説明を、どういうわけか、「自分はこれから一人でお城に行って共同浴場でお風呂に入ってくるから、みそきち一人で引越ししてね。引越し先は隣の部屋だから、よろしくね」という趣旨と聞き間違えて、「そんな置き去りはいやー。引越しは二人で一緒にしたいー」と、ぐずって暴れる。夫は、「あーあ。この人、寝ぼけとってじゃわ」と呆れて笑う。
布団の中でバタバタと暴れたおかげで、血行がよくなり、私は少しずつ目が覚める。持参のプラスチックマグカップに紅茶豆乳をなみなみと作ってごくごくと飲み干すと、さらにしゃっきり目が覚める。そうしてまともに目覚めてみると、夫が私を置き去りにしてお城に行く気などなかったことにも思い至る。
くすくす笑う夫の横で、朝ごはん用のビスケットや煎餅を食べながら、引越しの手順を思案する。思い巡らしたとおりに、部屋の荷物を片付けて、さくっと隣の部屋に運べるよう部屋の入り口にまとめる。まとめた先から夫がさくさく運んでくれる。最後に歯ブラシを突き刺した洗面台のコップを手に持って、私も隣の部屋へと移る。
隣の部屋では、宿のおばちゃん(おかみさんとは別の人)がお布団を敷いてくれている最中で、私が「おはようございます」と挨拶しながら部屋に入ると、「あら、まあ、おはようございます。お二人だったんですか。だんなさんお一人かと思い込んでいて、お布団一人分しか出してなかったです。すぐもう一組出しますね」と言いながら、手際よく作業を続けられる。夫が「いや、いいんですけどね。昼間に寝るのは、僕じゃないんで、一人分だけ敷いてあれば」と、まるで昼寝などしない人のように答える(実際は、夫は昼寝もうたた寝も、たいへんに得意なのに)。
おばちゃんと少し話しをしてみると、その流暢な山形言葉のリズムとメロディの美しさに魅せられる。その美しさを耳に浴び続けていたくて、そんなに興味があるわけでもなく、「このあたりにはスキーのお客さんが冬にはたくさん来られるんですか」などと質問してみる。おばちゃんは「そうでもないんですよ。みなさん、蔵王までは来られるんですが、ごっぢらまではなーがなが(こちらまではなかなか)」というかんじで応えてくださる。まだまだずっと聞いていたくらいの心地よさだけど、おばちゃんは手早く丁寧に二人分のお布団を揃えてくださると、すぐに、「それじゃあ、ごゆっくりお過ごしくださいね」という意味のことを滑らかな音で言ってくださってから、隣の部屋(さっきまで私たちがいた部屋)の掃除をしに出てゆかれる。
新しく引っ越した部屋は、前日泊まった部屋よりも、少しだけ狭い。部屋の広さが八畳から六畳に変わった以外は、窓からの眺めも設備も変わらず。料金は、昨日の平日料金の一人四千円から、本当ならば休前日(連休)料金の六千円に値上がりするところだけれども、連泊で部屋も狭くなるから五百円だけアップの四千五百円で。
夫は、「じゃあ、俺は、お城に行くね。たぶんお昼過ぎに帰ってくるから」と言う。「わかった。私は、したくしたら、クアオルトのコースを歩いて展望台まで行ってみる。帰ってきたら、一緒にお昼ご飯を食べに行こう。念のため、一応、携帯電話持っててね。私も持って行くから。いってらっしゃい」と見送る。
これで無事に引越し終了。明日の朝チェックアウトするまでのほぼ二十四時間はずっと、この部屋は私たちのもので、存分にゆっくりできる。出かけるもよし、温泉でゆだった体を布団に延べてくつろぐもよし。気ままに、思うがままに、過ごせる旅の一日を、うきうきわくわくと開始。