夜に誘う

五月一日夜の旅記録。山形県山上(かみのやま)市葉山温泉の宿にての二連泊が決まったことに安心して、旅の本を読みふける。安心して夜更かしができるのも、連泊の魅力だと思う。気に入ったページを何度も何度も読み返す。
部屋の蛍光灯を消して、お布団にもぐりこんで、眠りの世界に旅立とうとして、なんとなくな寝つけなさをおぼえる。けれど、翌日に特段の任務のない旅人は、気楽だ。せっかく寝つけないのなら、夜の空気と景色を味わいましょうよ、と、自分を誘って、起きだして、部屋の窓を大きく開ける。
夜景というほど明るくはない、家や通りや信号の灯り。遠く蔵王の麓から山に沿って並ぶ灯りは、山に登る道路のものだろうか、スキーリフトかケーブルカーの柱のものだろうか。
新鮮な空気を全身に浴びて、深く息を吐き、そして吸う。
いま、生きて、この星のこの場所で、安心なこころもちで、こうして夜を浴びていることが、ゆうるりとして、うれしくて、ありがたくて、少しせつない。これまで自分が生きてきて、こんな気持ちになる夜は、そんなに何度も頻繁にあるわけではなくて、いろんな加減と条件が絶妙に揃ったときにのみ叶う、特別なおたのしみだ。
布団の上に膝をついて、窓辺で両手を合わせる。雄大な山とその麓は、信仰に似た何かを、人に、私に、もたらす。
部屋の中にも体の中にも、夜の空気と力が満ちて、安堵と眠気が訪れる。既にもう何時間も前から、隣の布団で深く眠る夫の頭に軽く手を触れて、ほんの少しだけ、なでなで、として、いっきに眠りの海原へと飛び込んで落ちてゆく。