気候性地形療法(クアオルト)

五月二日午前の旅記録。館内引越しを終えると、夫は車で出かけた。目的地は、上山(かみのやま)城と、映画「おくりびと」のロケ地と、共同浴場。私は、気候性地形療法の葉山コースを目指して、歩きやすい服装で、首に汗拭きタオルをかけて、もちろん帽子はかぶって、小さめの肩掛けバッグに、ティッシュと、お茶のペットボトルと、他にはえーと、と考えても、特に必要なものを思いつかず、あ、そうそう、携帯電話を持っておくんだった、と思い出して、それだけ持って出かける。財布は貴重品袋に入れて、宿の帳場で預かってもらう。宿のおかみさんに「いってきます」と挨拶して、歩きやすい靴で出発。
宿からの坂道を下りたところで、葉山コースの地図看板を確認する。ぐるりと一周できるようになっているけれど、私は、右側半分を往復してくることにしよう、と決める。大きめの旅館が連なる通りを抜けるときに、黒い服を着た親戚風の集団の人たちが、何組か旅館に入ってゆく。そういえば、昨日、私たちがチェックインしたあとに、私たちが泊まる宿でも、黒服の集団の人たちの会食があったみたいだった。このあたりでは、五月の連休を利用して、ホテルや旅館で法要集会を行う文化があるのかなあ、と考えながら通り過ぎる。
旅館の従業員宿舎や従業員用駐車場がある場所を過ぎたら、そこから先はただの山になる。道路も途中からは舗装されておらず、両脇の木々の勢いが増す。ここでも桜がやる気満々で咲いていて、少し強い風が吹くと、花びらが舞って身を包む。ここからてっぺんの展望台まで、片道1.5kmくらい(宿からだと2.4kmくらい)。
「気候性地形療法(クアオルト)」では、歩きながらも、体が熱くなる前に、体表面の温度を下げるように工夫するのがコツらしい。正式には、定期的に心拍数などもチェックしながら歩くようになっていて、コースの途中何ヶ所か、心拍チェックポイントの看板があるけれど、私は今回は心拍のことは気にせずに歩く。坂道をぐんぐん登ると、すぐに汗ばんでくるけれど、「そうそう、これはクアオルトだから、早めに涼しくしないとね」と、日よけの帽子をいったん脱いで少し頭に風を通す。半袖Tシャツの上に羽織っているコットンカーディガンを脱いで袖を腰に巻きつける。坂道の曲がり角に来るたびに、ペットボトルのお茶をちょびっと口に含んで飲み込む。空に目を向ければ、道の両脇から生い茂る木々の枝先が毛細血管のように美しく伸びる。
坂道をてくてくと登りつつ、あれほど「勾配」に興味のないはずの私が、こんなふうに坂道を歩くことに積極的になるなんて、「山登り」や「参拝」では興味を示さない私が、同じ坂道を登るのでも、その行為の名前に「療法」がつくだけでとたんに興味を示すなんて、「私のそういうところって、なかなかかわいらしいと思うのよ」と、自分で自分の健康オタクぶりを寿ぎながら歩く。
坂道の途中で、本格的なクアオルトツアーの団体の人々とすれ違う。本格的な人々とは、規定の集合時間に集合して、規定の場所から出発して、ツアーガイドさんのリードに従い、規定のコースを歩き、心拍チェックポイントでは脈を測り、ストレッチポイントでは足腰を伸ばし、コース一周ぐるりと巡る人々。すれ違うときに、お互いに、「こんにちは」と声をかけあうのは、坂道ではよくあることだ。
頂上に近づくに従い、眼下の町の面積が広がる。その景色は桜越しで、鯉のぼりたちが元気泳ぎまくっていて、桜と鯉のぼりのセットは、なかなかめでたいものだな、と思いながらさらに上を目指す。
てっぺんにたどり着くと、展望台から見える山々と町のおおまかな名前が書かれたプレートをまず見る。ほほう、手前のこれが葉山で、むこうの蔵王も一口に蔵王といっても、それぞれにいろいろ名前があるのね、と学習しながら見渡す。さっきまでよりも、少し多めにお茶を飲んで、ふうううっと深く呼吸をする。
ろりろり、と、控えめな携帯呼び出し音が鳴る。夫からの着信音だ。「今から帰るけど、今どこにいる?」と聞かれる。「クアオルトで山のてっぺんの展望台にいる。私も今から下りていく。三十分前後で帰ると思うけど」と言うと、「じゃあ、俺も同じくらいか、ちょっと早いかも。帰ってきたら、お昼ご飯を食べに行こう」と夫が言う。「わかった。じゃあ、あとでね」と電話を切って、もう一度展望台からの眺めを見晴らす。夫も、この景色、見に来たらよかったのに。小高いところに登るのが好きな人なのに。
体温が上昇して、発汗した私の体からは、独特のフェロモン(のような何か)が出ているらしく、他の誰にも興味を示さない虫(小さな羽虫や蚊)が、私にまとわりつき始める。「ああ、もう、いいから。よってこなくて」と言いながら、帽子とタオルと手のひらで、自分の腕や首筋をはたきながら歩く。うっかりはたき忘れた部位には、ちゃっかりと蚊が着地して「ちう」と血を吸おうと身構えるから、「てえいっ! ちう、じゃないっ!」と言いながら、ぱしんぱしんと追いやる。追いやっても追いやっても、また虫たちが寄ってくるから、下り坂を小走りで、両腕をぐるぐるあちこちにまわしながら(虫を追いやりながら)駆け下りる。「虫、来るなー。うわー」と言いながら、坂道を駆け下りるのが、果たして、健康増進になるだろうか、気候性地形療法として有効だろうか、と、思いそうになったあたりで、虫の気配がなくなる。今度クアオルトの山歩きに参加するとき(参加者は私一人だけど)には、事前の虫除け剤塗布を思い出すこと。
だいぶん山道を下りたところで、年配の女性二人とすれ違う。私は坂道を下りながら、そして振り返って上り坂を見ながら、木々と桜の様子に、またしばし感心する。すれ違う二人の人たちは、ひたすらに上を上を目指しながら、「桜が立派ねえ」「きれいねえ」と話しつつ、ゆっくりゆっくりと歩いてゆく。すれ違いざまには、ゆるやかに、「こんにちはー」と挨拶する。
坂道を下りきったところにある少し広めの場所では、登る時にすれ違った、本格的なクアオルトの団体の人たちが、ガイドさんの指導に従って、ストレッチに励んでいて、そこからさらに歩く正規のコースの説明をうけている様子。私は正規のコースとはどうも違うらしい細い道(でも、宿が近くに見えるからきっと近道なんだと思う)を選ぶ。
宿の駐車場の鯉のぼりの下には、我が家の車が停まっている。鯉のぼりたちは風に吹かれて、ばふんばふん、と元気よく泳ぐ。私も元気よく、宿の玄関に入って、「ただいまかえりましたー」と声をかける。けれど、誰も何も応えない。
車があるということは、夫が部屋にいるということだから、と、思いながら部屋に戻ると、夫が畳に寝転んでいた。夫は、お城で玉蒟蒻を買って食べて、映画「おくりびと」のロケ地見学をし、共同浴場で一風呂浴びて帰ってきた、とのこと。「玉蒟蒻、私、まだ、こっちで食べてないから、食べたいな」と、言うと、夫が「じゃあ、お昼は蒟蒻レストランにしようか」と珍しいことを言う。私は蒟蒻好物だけど、夫は蒟蒻に対する評価があまり高くない人なのに。旅の高揚感による気の迷いでも、せっかくそんな気になってるときを逃してはならないと思い、「うんうん。そうしよう」と言いながら、汗をかいた衣類を脱いで、乾いたシャツに着替える。
部屋の窓は開けたままで、風を通しておくことにして、部屋の扉の鍵を閉めて、鍵はフロントに。誰もいないけど、鍵をカウンターに置きながら、「いってきます」と、声をかける。いってきます。