選挙妖怪

わたしの中には「選挙に行かないわけにはいかない」なにかが存在している。この強固なとりつき具合は、妖怪と呼んでもさしつかえないほどだと思う。
当たり前といえば当たり前なのだけれど、選挙当日投票に行けそうでなければ、必ず期日前投票を行う。遠方に転居直後でその地における選挙権がまだ発生していないために選挙に参加できない場合はいたしかたがないことにしたけれど、それ以外で心身その他に特別な事情があるわけではないのに選挙に行かない、のは、わたしはほぼ無理、なのだ。選びたい候補者がいるかいないかは、白票を投じるかどうかの判断基準であって、選挙に行くか行かないかの判断基準ではない。
とてつもなくのっぴきならない事情ではないのに選挙に行かないということは、「投票してもしなくてもどうせなにも変わらないから」と世を儚んでいるようでいるようでありながら、あるいは諦観しているようでありながら、実際には、なんだかんだ言いながらも、ある程度以上の満足がそこにはある、とわたしは感じる。そしてそれはそんなに悪いことではなくて、むしろ望ましいことかもしれない、とすら思う。なぜなら、おそらく、それはそれで、そういう、ある程度以上の満足が整った世の中を作ることこそが、先人たちの見果てぬ夢だったのだから。見果てぬ夢が叶うということは、叶った夢の中にいる人たちは夢を強く追い求めなくなるということとどこかセットなのかもしれないから。
ただ、あくまでも、わたし個人においては、選挙に行けるのに行かない、という選択をするのは難しい。自分の中でいくつもの時代のいろんな土地の何人もの先人たちがどこかでつながる遺伝子の中で自己主張を大きく行う。わたしのような特別な高額納税者でもなんでもない「平民」が選挙に参加するということが、わたしのような「女性」が選挙に参加するということが、どれほど悲願であったかを。そして、その権利を獲得するための活動の過程で受けた拷問や投獄や弾圧の様子(非常に怖い)を脳内映写室で自主的に自動上映してくれる。そんなことは一度も頼んでいないし、視聴希望もしていないのに。
だから、あの怖い脳内上映試写会開催を一定以上安定して避け続けるためにも、わたしは選挙に行かないわけにはいかない。
けれどそれだけではなくて、わたしが選挙に行くと、わたしの中の先人たちの何かが弔われるような、彼らの何かが少し安心したこころもちを伴ってどこかに旅立ってゆくような気配と感覚をおぼえる。それは怖いことではなく、むしろ、なんだろう、将来自分がこの世を終えるときのことが少したのしみになるような、そんな穏やかな感覚。そうやって、毎回の選挙で、根気よく、ひとつずつ、またひとつずつ、わたしは何かをどこかへ見送る。わたしにとって、選挙に行くということは、先人たちに対して、今の世の中の礎を築いてくださってありがとう、という気持ちを行動で示すための機会であり行為でもあるのかもしれない。