怖い夢を見た

今日は快晴だったから、お山はお客さんでいっぱいなのだろうけれど、夫は風邪で寝込んでいたから山には行かなかった。というわけで私は夫の軽自動車を借りて出勤。今日出勤する職場は駐車場が狭いところだから軽自動車のほうが駐車作業がしやすい。
以前は私がここの職場に行くときには夫の軽自動車を貸してほしいと頼んでも、軽自動車を愛する夫は近場の山に行くにしても山用品屋さんに行くにしても自分が軽自動車を使いたいからと普通車との交換を拒んでいた。しかし日本百名山を訪れるために頻繁に高速道路を利用するようになった夫はそのたびに普通車の利用を望むようになり、そのたびに私が「どうぞどうぞ」と快諾していたら、私が夫に「軽自動車を貸して」と頼んだ時にも「どうぞどうぞ」と快諾してくれるようになってきた。
今日の私の車が軽自動車なのを見た同僚が「どうやらさんの旦那さんはこのお天気ならお山なんですね」と言う。「それが今日は残念なことに夫は風邪で寝込んでいるんです、お山日和なんですけどねえ」と応える。同僚は「それは早く帰って看病してあげてください」と言う。
夫が風邪を引いているからそれで看病が必要だからというわけではなくて、今日は職場の事情に応じて私は少し早く退勤した。
帰宅してふすまをそうっと開けてみると夫はまじめに寝ている。私は居間のコタツで身体を温めて『ああ、またコタツ温浴の季節になったのねえ』とぬくぬくとした気持ちになる。そうしているうちに眠気がやってきて、これはコタツではなくてお布団にきちんと横になろうと決める。
出勤前に自室の壁にたてかけて扇風機で乾かしておいた敷ふとんをのべる。お布団に入るには必要のない靴下などの衣類を脱いで着心地のラクな部屋着になる。最初はそのままパタリと布団に身体を横たえたけれど、少しすると空気の温度が下がってきたのを寒く感じて足元に置いてある掛ふとんをひっぱってかける。ああ、うちのお布団は本当に寝心地がいい。お昼寝というか夕方寝万歳、と思いながらまどろむ。
夕方が夜に近づく気配が世の中に漂い始める。ああ夕方寝気持ちよかったな、そろそろ起きようかなと眠りの中で思う。できるだけ自分の身体の外郭にぴったりと隅々まで身体の内側が沿うように地道に確実に少しずつ目を覚ましていく。八割がた目覚めたあたりで「ううーん、ふうーっ」と声を出して身体を伸ばす。
すると同僚が私に覆いかぶさるように近づいてきて「どうやらさん、今、患者さんいらしてるから、声出さないで静かにしていてください」と言う。ええっ、と思い、まだしっかりと開かないまぶたをなんとかうっすらと開けると同僚は白衣を着ている。私はとっさに「ここはどこっ?」と声を出す。同僚は「しーっ」と唇の前に指を立てる。
私は自宅に帰ってきたと思っていたのに、夫が寝ているのを確認して自分も寝始めたと思っていたのに、まだ職場にいたの? しかも職場でつっぷして寝ていたの? 職場にはそんなスペースないはずなんだけど。たとえ職員が横になれるスペースがあったとしても、それは十分な広さの休憩室があればのことで、そしてそういう休憩室は患者さんやお客様からは見えないところにあるもののはず。いったいどうして私はこんな患者さんの視線の真正面に当たる位置で白衣を着たままで、そしてなぜ分包機(粉薬や錠剤を薬包紙に包むための機械)の上に乗って横になっているのかしら。ここの分包機は私が乗って横たわれるような大きさではないし、そもそも分包機というものはヒトが上に乗るようにはできていないものだ。
どうしたらいいのだと思いながら、私は分包機から降りてふらふらと立ち上がる。患者さんが帰られたあと薬局長と同僚に「こんなところで寝るなんて」と何度も頭を下げて謝る。薬局長と同僚は「どうやらさん、旦那さんの看病で疲れてるんやわあ」「今のが最後の患者さんだから閉店業務して帰りましょう」と言う。私は何がなんだかよくわからないうちにブラインドを下ろしてレジ精算をして白衣を脱いで上履きを外履きに履き替える。
ロッカーから荷物を出そうとしたとき、ロッカーに自分の夏用サンダルが二足あるのが見える。ええっ、なんで上履き以外の履き物が、しかも夏のサンダルが、こんなところにふたつもっ、これは至急持って帰らねば、と、両手にサンダルを一足ずつつかむ。
薬局長と同僚がロッカーの荷物を取り出すのを待っていると、職場の敷地内の焼肉屋さんにいる女性が「ああ、どうやらさん、ちょっとちょっと」と私に声をかける。私はおそらく知り合いのその女性に「ああ、だれだれさんだー」と言って近寄る。その人は「半額セールを狙って来たんだけど、メニューのどの肉が半額なのかよくわからなくて、半額のものだけ注文したいんだけど、どうやらさんどれかわかる?」と問うてくる。私は今も昔も焼肉屋勤務の経験はないのに「ええとね、セールのときのメニュー頁はたしかこのあたりに」とかなんとか、焼肉屋業務に詳しい人であるかのようにメニューをめくる。が、寝起きでしかも寝起きた場所が職場でびっくりしたばかりだし、なぜか夏のサンダルが二足もロッカーに入っているし、わけのわからないことだらけで混乱した頭には本来ちっとも詳しくない焼肉メニューは難しすぎて「ごめん、なんか私が勤めていたときとはメニューのかんじが変わってるみたいでわかんないや」と女性にメニューを返す。女性は「旦那と息子が頼んだ肉が半額対象のでなかったら返そうかと思ったんだけど、ありがと、お店の人に訊いてみるわ」と卓の中央に火の熾るテーブルに戻る。私は「へんだなあ、ここの職場の近所に焼肉屋さんなんてあったっけー」「私に焼肉屋勤務経験なんてあったっけー」とあらゆることに朦朧とする。
同僚と薬局長が「どうやらさん帰りましょー」と私服で荷物を持って薬局の鍵をかける。そのときになって私は「あっ、サンダルを手から離して中に置いたままだっ」と気づく。ふたりは「じゃあ、私たちは先に帰るから、サンダル取ったら、また鍵かけておいてくださいねー」と言って駐車場に向かう。私が「ああっ、私の車が一番前にあるから私が出ないと出られないのでは」と言うと「大丈夫。いったん少しバックすれば横からしゅるるっと出られるから」と言う。それでは、と私は再び薬局の中にサンダルを取りに戻る。ああ、このサンダルは、うちの玄関の靴を置く棚にあるのを見るたびに、もう夏物は下駄箱に片付けたいなあ、と思っていたサンダルだわ、と思う。ああ、これは、夏のサンダルを下駄箱に片付けなさいね、というお告げなのね、と思いながら、私はなぜかまた分包機の上によじ登って横になる。ああ、私はなぜこんなところに横になるのかしら。そもそも私は今日は少し早く帰って家の寝心地のよいお布団にうつ伏せていたはずなのに、どうしてこんなことに。ううう。とにかくこんなところで寝てないで、私は帰らなくては。サンダルを持って帰らなくては。夫の軽自動車に乗って帰らなくては。なのに身体が動かない。起き上がれない。眠い。もしかして何かへんな薬を誤って飲んだのだろうか。
パシュっと襖が開く音が聞こえる。それから足音。そして洗面台の水の音。夫が起きて動き出した音。私が右腕だけ上げて合図をすると夫が「いっぱい寝たらぐっとよくなった」と言う。
ああ、よかった、ここはちゃんと自分の家で私は自分のお布団で寝ている。さっきまでの謎の展開は全部夢だったんだ、よかった。助かった。それからゆっくりと私の勤務先周辺には焼肉屋さんはないことと、私には焼肉屋勤務経験がないことを自信を持って思い出す。
ああ、よかった、怖かった、本当にびっくりした。私は勤務中に寝ていたわけではないんだ。夢の中の出来事だったのに、すごく混乱して緊張して、なんだか脳がぎゅうっと巾着状に絞られたみたいにしびれたような固まったようなそんな状態になっている。分包機の上に無理に乗って縮こまって寝ていた態勢のせいなのか太ももとふくらはぎに妙なこわばりが生じている。
寝床から起き上がって、夫に「おはよー、ただいまー、あのね、怖い夢を見たの、怖かったよう、びっくりしたよう」と話す。「どんな夢?」と問う夫に「ちょっと待ってね」と言ってから、玄関の靴置き棚の夏のサンダルを手にとって下駄箱に片付ける。
たしかにうちの玄関の私の夏用サンダルはもう下駄箱に片付けたいなあとは思っていたけれど、ついつい忘れてなんとなく後回しになっていたけれど、冬の靴を出す時に入れ替えをするのでも特段問題のないことであっただろうと思うのに、私の潜在意識はどうしても今のうちに私にサンダルを片付けさせたかったのだろうか、それほどまでに私は夏のサンダルを片付けておきたかったのだろうか、サンダルが玄関に見えたままであることがそんなに気になっていたのだろうか、そんなに急を要する事情が私の知らないところに何かあるのだろうか、夢のなかで自分をこんなに混乱させてまですぐさまサンダルを片付けねばならないと、まずは何よりも起きたらすぐにサンダルを片付けようと、怖い夢の内容を夫に話すのはサンダルを片付けてからだと、それほどまでに一途に思いつめていたのだろうか。そんなに思いつめなくても、そういう「こうしたほうがいいよ、早いうちにこうしたいな」というたぐいのお知らせは、私にはできればもう少し穏やかな連絡方法で知らせてもらえるとうれしいなあ。
自分以外の誰かとのコミュニケーションに関してそれが簡単なことだと思ったことは今まで一度もないけれど、自分自身とのコミュニケーションでさえこんなふうに脳が絞られ脚がこわばり緊張するほどにいまだに手こずるのであるのだから、この手のことは簡単ではない簡単になることは今後もない一生ない元来そういうものなのだ、と、これまで以上におおらかに覚悟して生きているあいだを生きてゆきましょう、そうしましょう、と、なんとなく決意を新たにするようなそんな秋の夕暮れ。