タイタニック

夫が借りてきたブルーレイディスク。日曜日の午前中にふたりで一緒に見た。夫は初めて見るとのことでかなりまじめに、私は以前ケーブルテレビや地上波で何度か見たことがあるので今回はせっかくのブルーレイであることだしと耳栓で聴覚情報を制限してほぼ視覚のみで見ることに。それでも耳栓の隙間から音声はなんとなく聞こえるので全く視覚のみというわけにはいかないのだが。
夫は「見たことがないから一度見たいと思ってたんだー」と言うが、私は何度か見た記憶があり、こんなに記憶があるのにその何度かのすべてを私ひとりでお一人様パラダイス(夫がなんらかの事情で外泊などで不在で自宅に私ひとりだけの)状態で見たというのは不自然なのだけどそういうこともあるのかなあと思いつつ見る。
さすがブルーレイ、視覚重視だと調度品など美術の見応えがより一層増す。終盤笛を吹いて助けを求めるシーンは好きなので私も耳栓を外して見る。
始まって10分くらいのところでいったん止めてふたりで洗濯物(前日夫が山に行った登山衣類)を干したときに夫が「つかみはまあまあやな」と言う。私は特別タイタニックファンというわけではないが夫のこの発言には「天下のタイタニックに対してつかみはまあまあとかよう言うたな」と返しておいた。
見終えた時に夫が「みそきちが前に見た時と同じだった?」と問うので「うん、同じだったよ」と答える。映画というのは何か編集が異なるバージョンにあたるわけでなければ基本的には殆ど同じものを見ることになるはずで、地上波放送の場合には間にCMが入り思わぬところがカットされていることがあるかもしれないが、私には「あそこがちがってた」と思うような差はなかった。
このまえ夫が『ショーシャンクの空に』を借りてきたとき、夫が見終えたあとで私が脱獄直前のシーンから見ようとしたら夫が一緒に見るというので一緒に見たのだが、そのときも夫は見終えた私に「前に見たのと同じだった?」と訊いた。「うん、私の記憶の中のショーシャンクの空にと何も変わってなかったよ」と応えたのだけれど、夫にとっては映画というのは、久しぶりに見ると忘れて新鮮という以外に、見るたびに何かが変化するものなのだろうか。
ショーシャンクの空に』の終盤見直しのときに私は英語音声日本語字幕を選んだのだが夫はひとりで全編見た時は日本語吹き替えで見たらしく「おお、英語で見るとあちこちちょこちょこ違うな」と感嘆する。主人公が「6フィートの縄」を使うのだが、日本語吹き替えでは「2m」と言っており、英語音声は「6フィート」日本語字幕は「1.8m」となっている。主人公が下水道を這って移動した距離も日本語吹き替えでは「500m」とざっくりと表現されるが、英語音声では「500ヤード」日本語字幕では「460m」と表現され「アメフトのフィールド5個分」とまで説明が入る。きっと他にもいろいろ小さな差異はあるのだろうが各自楽しめればそれでよし。
タイタニック』を見終えて夫が私に「前に見たのと同じだったか」と確認したあとで「なんでかなあ、おれもなんとなくこの映画の断片断片の記憶があるんだけど」と言い出す。
「どうやらくん、それは、やっぱりどうやらくんもタイタニック見たことがあるんじゃないん?」
「そうなんかもしれん。タイタニックは今回初めて見ると思ったんだけどなあ」
夫は「ある程度おもしろいと評判の映画を借りてくるとやっぱり面白いなあ」と満足していた。