畳の寝床で中庭の風を

五月一日夜。咲花温泉でわたしたちが泊まった部屋は、玄関からおそらく一番遠い場所にあり、広いのだけれど、古い。縁側からは、小さな中庭を眺めることができて、よい風が入り快適だけれども、古い。玄関から近いエリアの部屋は、扉の形状からしてなんとなく新しげだが、わたしたちが泊まったお部屋は、和室とは別に上がりの間、トイレ、洗面、そして板を釘で打ちつけて覆って隠してあるバスルームと、ツインのベッドルームまである広さだが、古い。清潔にはされているが古い。旅行前に見た宿のホームページには、LANケーブルの貸し出しもありますのでご利用ください、と書いてあったが、新しげな部屋では利用可能なのかもしれないそのサービスは、少なくともわたしたちが泊まった部屋には、どこにもLANの差込口はなく使えない。夫は「ネット環境設置よりも前にテレビをアナログからデジタルにするのが先だ」と言う。
旅に同行するネットブックは旅行かばんの中に待機しているのだけれども、接続できない状態で下書きだけするにしても、卓とコンセントの位置の具合がもうひとつだから、ネットブックにはかばんの中で待機し続けてもらうことに。
「寝床はベッドルームに用意されているのですね」と入室したときに係の方に話したら、「もし、畳のほうがお好きでしたら、こちらの部屋にお布団敷くこともできるんですよ」と言ってくださるから、では、ぜひそのようにしてください、とお願いする。
しかし、夫は「おれは、ベッドでいいよ」と言うから、「では、わたし一人分だけ、畳の方でお願いします」と伝える。
ベッドルームは、畳の部屋の奥にあり、縁側からの風が入りにくい。新鮮な空気を愛するわたしとしては、中庭からの風をそよそよと浴びることができる位置で身体を横にして休みたい。それに夜中に喉がかわいてなにか飲みたいと思ったときにも、卓と茶器類は畳の部屋にあるのだから、その近くにいるほうが、寝ぼけたままでの活動量(移動距離)が少なくて済む。
わたしが夫に「ベッドルームからだと、お布団の上に寝転んでテレビを見られないよ」と言っても、夫は「別にいい。畳の上にじかに横になってテレビを見てから、寝るときにはベッドに行くから」と言う。
「ご飯のあと少ししてから、また温泉に入ったあとで、お風呂上りに湯だった身体を放熱するのにも、風の通り道のこの場所で、お布団の上に寝転んだら、そよそよとして気持ちいいと思うけど」とわたしが言っても、「ベッドがあればベッドでいい」と夫は言う。
ふうん、そうなんだ。そこまで言うなら、そうするのがいいね。寝る場所の距離が離れていれば、夫のいびきも気になりにくいしね、と思う。
食事を終えたときに、係の人が「では、のちほど、お布団を敷きにまいりますので」とおっしゃって、お膳を全て下げてくださる。
食後、夫は館内の喫煙所に煙草を吸いに行く。わたしは食後の歯磨きにコシコシと励む。夫が部屋を出掛けに「あ、やっぱり、おれもベッドじゃなくて畳にする。お布団敷きにきちゃったら、頼んでおいて」と気軽に言うが、わたしは「そういう自分の変更事項は、自分で言って、自分で頼んで」と断る。
夫が煙草から帰ってきて、わたしは二度目のお風呂に向かう。二つある湯船のうち、源泉が流れこむほうの湯船は透明な緑色のお湯で少し熱い。そのお湯を引いて貯めてある二つ目の浴槽のお湯は、白濁した緑色で少しぬるめで入りやすい。
お風呂から上がって部屋に戻ると、畳の上に二つのお布団が並べて敷かれていて、夫はすでにその上にごろりと横になって「ああ、快適、快適」とつぶやいている。
この快適さを知っているのに、この快適さが手に入るのがわかっているのに、なにゆえ、わたしが畳寝床を提案したときに、「いや、隣室のベッドでいい」と言うのか、そのベッドが特別広くて快適なベッドだというならともかく、きっちりとシングルサイズの、見た目もスプリングの具合もかなり古びたベッドなのに、夫はときどきわたしの感覚では計り知れないことを言うが、そういうときにはだいたい、とりあえずわたしの提案には従いたくない反抗期妖怪が脳内で活躍してるときなのだろうな、と思うことにしている。
夜になって、布団に本格的に横になって眠り始めてみると、やや腰が痛く、うまく眠れない。お布団自体が、そろそろ打ち直しの時期あるいは買い替えの時期なのだろうな、というへこみ具合。しばらくあれこれ寝相を工夫してみたが、どうにもうまくいかなくて、しばらくしてから、これはいかん、と、おもむろに、枕の場所を足のあったところに置き換えて、それまでとは反対の向きで寝てみる。そうすると腰の位置が、布団のくぼみ部分と少しずれて、きちんと布団に支えてもらえてる快適さが生まれて、なんとか、すうっと眠りに落ちる。
翌朝、目が覚めてみたら、夫の顔が同じ場所にあった。夫も腰が痛くて、枕の向きを変えたのかな、と思って訊いてみたところ、「頭の向きが反対のほうが、いびきの音が聞こえにくいかな、と思って、最初から、こっちがわに頭を向けて寝始めた」と言う。
昨夜、お布団に入って「おやすみなさい」と声をかけて、蒸気でホッとアイマスユーカリを目の上にのせて、となりのお布団に手を伸ばして、夫の頭をなでなで、としたつもりだったのに、あれは頭でなくて足だったのか。足の上にかけてある布団をなでていたのか。