大塩温泉のお湯と井戸

五月二日夕方。宿泊予定の大塩温泉に到着。駐車場の桜はまだ咲いておらず、地面のあちこちに雪の塊が残り、空気がひんやりと寒い。
宿に入って宿帳に名前と住所と電話番号を書く。宿の方が「お風呂は館内にもありますが、お泊りの方には無料で共同浴場を利用していただけますので、よかったらいってきてみてください」と勧めてくださる。
宿のお風呂はひとつのみで、入浴するときには札をかける。「殿方入浴中」「ご婦人入浴中」「ご家族入浴中」の三種類の札があり、同性の場合は入ってもよいが、家族で利用中の場合は貸切なので空くのを待つ。しかし、この日の宿泊客は、夫と私の一組のみだから、いつでも貸しきりなのだけど。
部屋は二階の広い和室。前日の宿もそうだったけれど、ここにも灯油のファンヒーターが用意してある。咲花温泉では使わなかったけれど、ここでは、この寒さでは、必要になるかもしれない。
荷物を置いて、お茶を飲んで、荷物をひろげて、自分の使いやすい配置にして部屋を整える。
それから、タオルを持って、共同浴場へ出かける。宿から歩いて三分くらいの場所にある小さな建物で、いったん入り口に入ったあと、階段を下りて浴場に向かう。システムとしては先に入った玉梨温泉と同じで、一人二百円以上のお金を箱に入れて入る方式。玉梨温泉も大塩温泉も入浴料金を入れる箱の周りに、「誰々様何万円」と名前と金額を書いた紙が何枚も貼ってあり、大口の寄付に対する感謝が示されている。同じ紙に書いてある住所から推察するに、共同浴場を維持するために投資してくださった近隣の方々のよう。
大塩温泉共同浴場のお湯は、炭酸の発泡がやや感じられ、先に入った玉梨温泉よりも鉄分は少なめな味わいだ。けれども、浴室の床はやはり赤茶色くなっていて、お湯を洗面器で肩にかけるときに膝を床に着くと膝が赤茶色になる。浴室には地元のおばあさんと隣町から来た年配の女性と若い女性とわたしの四人。浴室の窓からは、とうとうと流れる只見川の流れが見える。お湯でしっかりとあたたまって出て、入口で待つ夫と「いいお湯だったね」と話しながら宿に戻る。
宿に戻ってしばらくすると、温泉であたたまった身体がだんだん冷めてきて、なんだかずいぶんと寒くなる。これは、今夜はかなり冷えそうだと思い、車のところまで行って、レギンスとヒートテックのインナーをとってくる。
部屋でガイドブックを見ていた夫が「近くにある炭酸水の井戸まで散歩で行ってみよう」と言うから、出かけることにする。宿のおじさんに井戸の場所を尋ねると、詳しく説明をしてくださり、片道七百メートルくらいの場所にあることがわかる。この寒さの中その距離を歩くのは嫌だったから、「じゃ、車で行く」とわたしが言うと、夫は「えー、車でー? 歩けるのにー」と言うから、「わたしは車で行くけど、どうやらくんは、トレーニング(夏に登る予定の富士山に備えてのトレーニング)のこともあるし、歩いていってきてもいいかもよ」と言って車に向かうと、夫も車のところに来て助手席に乗る。
車で二百メートルくらい走って、井戸はこちら、の看板が見えたら、横道に入ってゆく。そのまま突き当たりまで行くと、炭酸水アクアイズを製造しているハーベスの工場が見える。そのとなりに杜のようになっているところがある。手前のところに車を置いて、空のペットボトルを持って杜の中へ。
空気が澄んでひんやりとした杜の中へ入っていくと、ぷくっぽこっぴちゅっ、というような水琴窟の音にも似た小さな音が聞こえてきて、なみなみと水をたたえた四角い井戸が見えてくる。井戸の底からは新しい炭酸水が湧き続けていて、泡がしゅわわわわ、しゅわわわわ、と立ち上り、井戸の外(井戸の内側の隙間のようなところかもしれない)に少しずつ水があふれる。
井戸の周りにバケツと柄杓とヤカンと、少し離れたところには落ち葉をすくって捨てるための網が置いてある。ペットボトルの蓋を開けて、柄杓で井戸の水をすくい、その水でボトルと蓋を何度もすすぐ。夫は柄杓の水を少しずつペットボトルに注いてボトルを井戸水でいっぱいにする。わたしは井戸の中にペットボトルを掴んだ手ごと沈めて、井戸の中の水を直接ボトルに入れる。自分の手にぴちぴちとした炭酸水の感触と水のきんとした冷たさが刺激を与える。「うう、つめたい。うう、ぷちぷちする」と水の刺激を堪能してから、手を井戸から出す。ボトルに蓋をしてから、柄杓ですくった水を手のひらでうけて口の中に含んでみると、炭酸水独特のしょわしょわとした発泡と濃いミネラルの味がする。
「こぶし館で買ったアクアイズに比べると、しょわしょわ感が少ないような、ミネラルの味が濃いような気がする」とわたしが言うと、夫が「たぶんあれは、これにさらに炭酸のガスを足してあって、ミネラルの濃さが気になりにくく仕上がってるんじゃないかな」と言う。
井戸と杜に「ありがとうございました」とお礼を言ってから離れ、車で宿に戻る。
宿の部屋はもうずいぶん寒くて、灯油のファンヒーターを作動させる。しばらくゆっくりした後に、夫は内湯に入りに行く。お風呂から戻ってきた夫は、「さっきの共同浴場に比べたら、ここのお湯は炭酸かどうかもよくわからない。普通の水を沸かしたお湯みたいに感じられる」と言う。「そうなんだ」と感想を聞いて、しばらくガイドブックを見たり地図を眺めたりしてから、今度はわたしが内湯にゆく。
「ご婦人入浴中」の札をかけてから脱衣所に入る。内湯のお湯は、完全な無色透明で、匂いも味も特別ない。湯船のまわりも変色していない。真水のようではあるけれど、湯船につかると真水の時とは異なるじんわりとした感触をおぼえる。顔をバシャバシャと洗うと肌がつるつるきゅるきゅるとする。
部屋に戻ると夫はテレビを見ている。ここのテレビも古いブラウン管テレビで縁は赤色。福島に来てから見るテレビには、画面の上と左側と下が青い縁で囲まれていて、震災情報が常時表示されている。その分テレビ番組の放映画面自体は小さくなるけれど、こんな相談はこちらに、と常時文字案内が流れているのは、必要な人にとっては便利でこころ強いことだろう。
わたしは部屋の卓の上で、友人宛に「大塩温泉に来ました」のハガキを書く。
そうこうしているうちに夕方六時半が過ぎ、部屋の電話がなり「お食事の用意ができましたから下の広間におりてきてください」と連絡が入る。
お昼ごはんがわたしは玉こんだけだったから、お腹のすき具合がいいかんじ。夕ごはんがたのしみ。