仁王立ちになった嫁はそして修験道をゆく

旅記録の途中だけれど、思い出したことがあるので、そのことを記録しておく。

旅記録を書いていると、夫の脳内反抗期妖怪の活躍ぶりがめざましいことにあらためて気づく。かの妖怪の活躍は、旅の時に限ったことではなく、日常生活のここかしこでなされる。
わたしの提案に対して、夫がとっさに「否」を示す言動は、そして多くの場合結果的にわたしの提案が良策であることがわかる成り行きは、彼が何か強い意思を持って、というよりは、脳の特定の配線が自動で起動する何かのパターンのように、その配線の電気信号に支配されているように、以前から感じるところがある。

今回、旅記録を書いていて、久しぶりに思い出したのは、結婚して、最初の夏に、夫の実家に帰省したときのことだ。
その頃は、夫の実家は、まだ今の建て替えた新しい家ではなくて、古くて、台所は人間が対面で交差できないほどに狭かった。当時は、義妹は独身で実家で暮らしていた。
義母は「ここは狭いから、要るものがあれば言いんさいよ」と言っては、冷蔵庫や流し台周辺から必要なものを食卓にしているコタツ(夏は布団のない卓)に運んでくれる。その作業の流れで、義母が「ヤクルト飲む? お腹にええんよ」と言って冷蔵庫からヤクルト(あるいは類似品)を冷蔵庫から出してくれて、わたしは「はい。ありがとうございます。いただきます」と一本もらう。義母は「わたしも飲んどこう。お腹にええけんね」と言ってから、夫と義妹に向かって「飲む?」と訊く。
夫と義妹は「いらん」と即答する。わたしは、ふうん、いらないんだ、と思いながら、ヤクルトをこくこくと飲む。義母は残りのヤクルトを冷蔵庫に片付けてから、畳の上に座って、ヤクルトを飲み始めようとする。そのときに、夫と、そして続いて義妹が、「あ、やっぱりヤクルト飲む。出して」と、義母に向かって言ったのだ。
わたしは反射的にすぐさま仁王立ちになり、夫と義妹に向かって「こらっ。あんたたち。なんなの、その態度は。おかあさんに謝りなさい。さっき、おかあさんがわざわざ飲むかって聞いてくれちゃったときに、そっけなく要らん、って言っておいて、何十秒も経たないうちに、やっぱりほしいって、気が変わるようなそんな気持ちなら、おかあさんが聞いてくれたときに、自分の身体がヤクルトを欲してるか欲していないか、よく考えてから答えなさい。それでいったん断ったなら、その後で欲しくなったときには、自分で立って自分で冷蔵庫から取り出しなさい。もしもお母さんに取ってもらうなら、もっとちゃんと丁寧にお願いしなさい。自分で自分のことができない小さな子どもじゃないんだから、大きな大人なんだから、おかあさんに対してそういう子どもじみた失礼なことをするんじゃないっ」といっきに言う。
義妹は社会的なことにはたと気がついたような、あ、そうだったこの人(わたし)は家族といっても明らかな他人だったんだと気がついたような表情で「あ、おねえちゃん、ごめん。おかあちゃんも、ごめん」と素直に言うが、夫は「さっきは欲しくなかったけど、気が変わったんじゃけん仕方ないじゃん」と言う。
「気が変わるのは仕方ないけど、それなら自分で立って取りに行きんさい」
「でも、かあさんのほうが冷蔵庫に近いじゃん」
「近くても。おかあさんが近いからって、どうやらくんが立ってヤクルトを取りに行っちゃいけないわけじゃないでしょ。それで、もし、おかあさんが代わりに取ってくれちゃったんなら、それはそれでいいけど、そのときにはおかあさんにちゃんとお礼を言う人のほうが、わたしは好きだし、わたしはそういう人と一緒に暮らすつもりじゃけん」

夫や当時の義妹のように、家族以外の他人を相手にしたときにはお願いやお礼を言えるけれど、家族に対してはお願いやお礼の言葉をいちいち伝えない人は少なくないのかもしれないし、そういう家風や文化もあるのだろう、とは思う。けれど、わたしは夫という一人の人と家族として共同生活をしていくうえにおいて、家族といえどもお願いやお礼はその都度伝える文化でやっていくつもりでいたから、先の出来事を見過ごすわけにはいかなかった。

だけど、あのときの、義母の表情は、今でもよく思い出せる。義母は「みそさん。ありがとねえ。でも、ええんよねえ。ここは、ところ(場所のスペース)が狭いんじゃけん、それぞれが立ってなんかかんかしよう思うてもできんのんじゃけん」と言っていた。自分をたててかばってくれる「嫁」「義理の娘」という新しい存在を新鮮に嬉しく思いながらも、自分の子どもたちが「赤の他人」から叱責されることで自分がしてきた子育てのやり方を否定されたような少し不本意で複雑なそんな表情で。

義母には義母で、母として我が子をなんでもないこと(ヤクルトをとってやるかどうか程度のこと)で甘やかしたい、たとえ子どもが十二分に成人以上であるとしても、子どもの無邪気な甘えを受けとめる快楽をときどき味わいたい、年に数日たまに帰ってきたときならばなおのこと、そんな親としての無意識の欲求のようなものをかなえたい部分もあるのかもしれないのに、そして子の側も無条件に子どもっぽく親に甘える形での親孝行があるかもしれないのに、大人同士であっても、そんな家族の形やひとときもあちこちにあるかもしれないのに、わたしはわたしのおそらく実家の文化をきっとある意味ふりかざして、夫と義妹と義母に対して、ある種の宣戦布告をしたことになるのだろうなあ、とあとから思いはしたけれど、だからといって悔いはまったくひとつもない。

わたしにとって文化的習慣的に「快」であることと「不快」であることがどんなことなのかは、夫にも義実家家族にも早いうちに知ってもらうほうが、あとあとがラクなはずだ。誰かの配偶者として相手実家の家族に相対するときに、なんというか「最初が肝心」なことは、人それぞれきっといろいろあるのだろうけれど、わたしにとっての「最初が肝心」のひとつは、あの宣言だったのだろうと思う。

他人でも家族でも、言いたいことをなんでも言えばいいというわけではないけれど、自分の誇りや尊厳のようなものにとって言うべきであることを言えるときには言ってそこで発露し終えるほうがずっと心身がすこやかだ。少なくとも、あのときのわたしの仁王立ちの言葉で、義母と義妹は、わたしのことは、黙って我慢して周りに合わせるタイプではないんだな、ということは観察理解できたであろうと思う。

わたしの好みを知ったからと言って、夫以外の義実家の人たちはそれほど大きくわたしの文化に迎合する必要はないが、夫はわたしとの共同生活を選択した以上、特に新婚とその後しばらくは、異文化の融合に努める気概も気合も必要な時期にいたはずだから、わたしの仁王立ち説教はその参考になったことだろう。

あの夏、夫とわたしは二十八歳だった。二十八年間それぞれの家庭で形成してきた文化や習慣は、それぞれほぼ無意識に、家族間でそのようにしていることが多い。そしてその文化や習慣は、自分の脳内で特定の第一優先配線となって起動しやすくなっているものなのかもしれない。

夫もわたしも双方の文化に折り合いをつけたり、折り合えないこともひとつの形とわりきったりして、これまでともに暮らしてきた。そして、折り合いをつけている事に関しては、それぞれ円滑にできることが多くなってきたし、傾向と対策が機能する部分も増えてきた。さらには、夫と二人で暮らして新しく形成した文化や習慣は、それぞれの実家にはないものだけれども、わたしたち二人にとってはたいそう快適で好ましく、もはや実家の文化や習慣の中で再度同居の家族として暮らすのは、おそらく困難であろう、と思うようなこともたくさんになった。

それでも、ふとしたときに、夫のとっさに「否」と言う、義母の「ヤクルト飲む?」にとっさに「いらん」と言い、直後に「やっぱり取って」と言う、そこで「ごめんなさい」も「ありがとう」も添加しない、あの文化と習慣は、彼にとって、あの家族の中で長年ずっとそうしていた、そしてそのことに誰も疑問を持たない中でそうしていた、そしてそれは犯罪でも悪行でもなく(善行でもないと思うが)、その文化の中では互いにいろいろ省エネでもあり、またはある種の「型」「パターン」であり、それを繰り返してきた蓄積は、後年になっても実績として、いつでもふいに出現するものなのだなあ、と、夫の反抗期妖怪に遭遇するたびにそう思う。

夫の反抗期妖怪にあたるような妖怪が、おそらくわたしの中にも別の形で棲息しているのだろう、とも思う。そして、夫は、わたしの中のその妖怪たちに遭遇するたびに、「あああ。またお出ましだ」と思ったり、やり過ごしたり、あるいは「出た!」と指摘するなど、いろいろ工夫しているのだろう。

以前は夫の中の反抗期妖怪に遭遇すると、残念な気持ちが高まって、心身ともにぐったりすることが多かったのだが、ここ最近は、遭遇と同時に、脳内でキーボードが動き始めて、今回の妖怪をどう記録しようか、という好奇心のほうが、残念な気持ちやぐったり感を凌駕するようになっていて、それは書くことの恩恵のようでもあり、業のようでもある。

しかし、日記のネタになればなんでもいい、というわけでもなく、わたしは自分の快適や安寧をあきらめるつもりもないから、必要に応じて、妖怪退散の術を行使すべく、場合によっては、妖怪が頻繁に出没する状況そのものに身を置くのはやめておおいに別々に過ごすという選択肢も含めて、その術と技の習得とさらなる上達を目指して、はるかなる修験道を往くのであった。