熱塩温泉夕ごはん

五月五日。熱塩温泉での夕食が始まる。こちらの宿には、前々日に西山温泉に泊まったときに電話をかけて、予約の確認と同時に、食事に関するリクエストの連絡をお願いした。前日には、宿の方から、わたしの携帯に電話をかけてきて、「にんにく、ネギ、タマネギ、ニラなどは、薬味やドレッシングなどとしての使用も避けたほうがよろしいでしょうか」と確認してくださったので、「はい、ぜひ、それでお願いします」と伝えておいた。当日チェックインの際にも、再度の確認があり、「お手数をおかけいたしますが、よろしくお願いします」と伝える。
夕食は、お部屋にお膳で運ばれる。食事係の若い女性が、二つのお膳を順に運びこんで、夫のほうには通常食を、わたしのほうには五葷抜き食を置いてくださる。そして、それぞれの料理の説明によれば、夫の膳の方はそこここに五葷が使用されていて、またそれがたいへんにおいしそうである。
五葷の問題さえなければ、アスパラガスのすりおろしスープ(味付けにニンニクが入っている)も、会津地鶏の生ハムとルッコラ(ドレッシングの中にニンニクが入っている)もその他いろいろ食べたいものがあった。それらの料理の代わりとして、その品数だけ、わたしの膳には、別の料理が供されていて、ありがたいなあ、安心だなあ、と思い、お礼を伝える。が、こうして比べて見てみると、夫の膳の色合いがたいへん華やかで、五葷を抜いた場合、味の輪郭のぱっきりとしたシャープなおいしさが得られにくいというだけでなく、料理の色合が地味になりやすいのも、この分野が積極的に成長していない理由の一つであり、課題でもあるのかもしれない、と思う。
食事の係の人に、注文した飲み物をいただきながら食事したいので、お願いします、と伝えると、「はい、ただいま、順次お持ちいたしますね」と応えてくださる。そして、わたしのアサイーベリージュースが、まもなく、別の男性従業員さんによって運ばれ、果物は食前に摂取するほうがその後の消化の調子がよい身体を持つわたしは、まず飲む。濃く濁った赤紫の液体は、爽やかに甘く酸っぱく、アサイー独特の、蓮根のような芋のようなコクと深みがあって、おいしい。
それからしばらく経過して、食事の係の方が別の料理を持ってきてくださるが、熱燗はまだ来ない。その後も来ないので、夫は「この料理にはお酒がほしいから、館内の自動販売機でビールを買ってくる。熱燗は、キャンセルする。おれがいない間に、係の人が来ちゃったら、キャンセルのお願いしておいてほしい」と言って、小銭を持って出て行く。
しばらくすると、係の人が、ご飯とお漬物と汁を持ってきてくださるが、盆に熱燗は乗っていないので、「熱燗なんですが、キャンセルしてください」と伝えると、「ああっ! なんてこと。すみません。すぐにお持ちします」と言われる。
「いえいえ、もう、自動販売機のビールを買いに行きましたので、そちらをいただきます。キャンセルの連絡を、会計の方にお願いします」
「ああ、本当に申し訳ありません。そのために夕方お伺いしたのに。フロントにはわたくしから連絡をしておきます」
「よろしくお願いします」
そう会話して、係の方が部屋を出て行く。夫は、どこまで何を買いに行ったのかな、と思うくらいなかなか帰ってこない。たぶん、空腹も解消されていて、そこここで目についたものを見物したりしてるんだろうな、と思いながら、一人でおいしく食事をする。
またしばらくして、係の方が入ってきて、熱燗のトックリをふたつ持って来られる。
「こちらは、お代はいただきませんので、よろしければ、お召し上がりください」
「お気持ちはありがたいのですが、もう、必要ありませんので、お気になさらず」
「いえ、わたくしの不手際ですので、どうかサービスさせてください」
「熱燗のキャンセルは間違いなくフロントに連絡いただけましたでしょうか」
「はい。それは大丈夫ですので、安心してどうぞ」
「それはありがとうございます。おそらくもうお腹いっぱいですし、お酒をいただく余裕が胃腸になくていただけないと思うのですが」
「一応、置いていきますので、飲めそうであれば、お飲みください」
「はい、そのように伝えます。今日は、従業員の皆様、忙しくて大変そうですね」
「おかげさまで、満館でして、震災の風評被害でご来館少ないだろうという予定だったのですが、そんなこと全然なくて、でも、わたくしどもの忙しさを言い訳にはできませんので、本当に申し訳ございません」
夫がサントリーモルツの缶を持って帰ってきて、缶を開けて飲み、「ぷはーっ、うまいっ、やっぱりこの料理にはお酒ほしいよなあ」と言う。「さっきね、どうやらくんがいない間に、熱燗のキャンセルはしたんだけど、係の人がおわびにって、熱燗を二本持ってきてくれちゃったんよ。注文したのは一本なのに、二本も。飲めないよねえ」と話す。
「ああー、なんかー、フォローをがんばっているのはわかるんだけど、方向性がー」
「そうなんだよねえ。たぶん予定外に全館満館になって、人手の厚さが少し足りなくて、従業員の皆様全体的に余裕が不足しているというか、そういうのって、一点だけじゃなくて、こう、その日だけのことじゃなくて全体的にあちこちに影響が出るよねえ」
「一事が万事、っていうやつやな」
「宿泊料金の案内金額に差があるのも、予約時に確認した金額で予約がなされていないことも、お風呂でおばあさんが言ってらしたお掃除が行き届いていない部分も、注文を受けた飲み物のことを忘れるとかは、たぶん、全部、通底でつながっている出来事なんだと思う。しかも、そういうことって、重なるときには重なるようになってるから」
「せっかく出してくれちゃったんなら、飲めるかなあ」
「いやいや、無理に飲まなくていいよ。もうビールがあるんだし。わたしは今日は飲めない身体のかんじだから飲まないから、このままお返ししようよ」
「そうしたほうがいいな。もったいない感は仕方ないけど」
「その感情の部分は宿の方にお任せしていいと思う。というか、本来はお客にもったいない感を提供した時点でサービスになってないんだけど」
「これもある種、震災の影響といえば、そうなんかもなあ」
「うん。あのね、お風呂の脱衣所で一緒になった人たちが、たぶん、避難で滞在してる人たちなんだけど、避難者同士での感情レベルのトラブルが、いろいろあるみたいでね。避難者の人たちが自由に洗濯できるように、専用の洗濯機を戸外の足湯のそばに設置してあるらしいんだけど、同じ洗濯機を共用すると、人によっては、その洗剤や柔軟剤は使ってほしくない、だとか、そんなに言うなら使っていいって言われた、とか、いろいろあるって話をしてはるのが聞こえた」
「避難してきてる人たちにとっては、生活の場になるから、それぞれ自分のスタイルがあるわなあ、そらあ」
「そうなんだよねえ。施設として、避難する人たちを受け入れてがんばっているんだけど、滞在者同士のトラブルを聴いて対応することや要望に応えたりお断りしたりするのは、宿の人にとっては通常業務の範疇外なんだろうしねえ。生活者にとっての快適さと、旅人としての高揚感を伴うくつろぎを同時に提供するのは、業としてはいろいろエネルギーが必要なんだろうなあ」
「熱燗キャンセルの連絡がちゃんとされて、明日の請求に反映されてるかどうかの確認だけ、支払いのときに気をつけたほうがいいな」
「うん。こういうエネルギー状態のときは、サービスを受ける側も、淡々と協力するほうが、結果的にお互いスムーズなんだろうね」
夕食を食べ終えて、「食事終わりました」の連絡を電話でする。係の人からは「もしかするとお膳を下げにくるのが、少し遅くなるかもしれませんけれど、よろしくお願いします」と聞いていたから、そのつもりでゆっくりと他のことをしながら待つ。係の人がわたしたちの部屋に出入りされる間にも、館内業務連絡のPHSか何かの呼び出し音が、小さくではあるけれど、たびたび聞こえて、多忙ぶりがうかがえる。
係の人は、熱燗の件について、再度詫びられる。「よろしければ、トックリを残していきますので、お休み前にでもお召し上がりになられませんか」と訊いてくださるが、寝酒の習慣もないことだし、「お気持ちだけありがとうございます」とお断りする。
係の人は「では、のちほど、お布団の係の者が別に、お布団を敷きに伺いますので、今しばらくお待ちください」と言って退室。
夫に「わたしまだもう少し部屋にいるから、どうやらくん煙草吸いに行っても、お風呂に行っても、だいじょうぶよ」と言うが、夫は「うん。もう少ししてから」と言って部屋にいる。
しばらくすると、お布団係の女性二人が「失礼いたします」と入室される。手際よくふたり分のお布団を敷いてくださる。作業中に「あ、そっちがわ、こうして」というような業務連絡をし合うときの言葉が、わたしには、とても濃い会津弁に聞こえるのが、たのしくてうれしい。わたしたちに「では、ごゆっくりお休みくださいませ」と言われるときには、全然方言ではないのだけど、地元スタッフ同士の会話は方言なんだなあ。
お布団係の人たちが退室されたあと、夫が「今、布団敷きに来てた、年下っぽい人のほう、たぶん、前回、おれらが泊まったときに、部屋に食事を運んでいろいろ説明してくれた人じゃないかな」と言う。
「そんなのよくおぼえてるね」
「みそきちとちがって、人の顔、ふつうにおぼえられるもん。それに、あの言葉のかんじに記憶がある」
「そうなんだあ」
「でももしかすると、背格好年頃が似てて会津弁だったら、誰でもそう見えるんかもしれん」
「背格好年頃のデータが整理保存されること自体がすごいなあ。わたしの脳内ファイルは、身長は四十センチくらいまでは誤差の範囲で、年齢も前後十才は幅のうちで、あんまり違いがわからんのんよねえ」
「何かの事件の目撃情報提供者として、ぜったい役に立たん、というか、むしろ協力しないでください、というか、こういう人の目撃情報が採用されると冤罪を生むんやろうなあ」
「この、対象の識別に難があるあたりを鑑みて、わたしがスパイを職業に選ばないという適性判断をしたのが、えらいところだと思うな」
「みそきちみたいにしょっちゅうトイレに行く人は、スパイには向いてない。って、どういうツテでスパイに就職できるんか知らんけど。あと、刑事のハリコミも無理やろうな。そんな再々トイレに行ってたら、対象を追えるわけがない」
「だから、ちゃんと職業選択してるのがえらいね、って言ってるんじゃん。でも、わたしくらいの排泄だったら、別に頻尿じゃないんだよ。男性と女性は身体の作りがちがうから、もともと女性は男性よりも排尿頻度が多くて、しかもわたしの身体は排泄デトックスに熱心ないいやつなんじゃけん、がんばりようるんじゃけん、いいじゃん」
「がんばれー」
がんばるよ。がんばってるよ。