手塚治虫のブッダ─赤い砂漠よ! 美しく─

夫が一人で観に行った映画。
夫は、先々週の休日に「映画を見に行ってくる」と言って出かけたものの、上映時間を調べたつもりの時間に合わせて到着したら、見ようと思ってた映画「これでいいのだ」がすでに終盤の時間帯で、それなら、この回の上映が終わったら次の上映で見ましょうと思ったのに、次の上映は同日の六時間後であることが判明したため、あきらめて帰ってきた。
だから、今日、映画を見て帰ってきた夫に「今日は、これでいいのだ、見れた?」と訊いたのだが、夫は「これでいいのだは、もう終わったのだ」と答える。短い上映期間だったのか、それくらいのものなのか。
「じゃあ、今日は何を見たん?」
ブッダ。でも、まだまだ、話が、ようやく出家するところまでで、これだけ見てもよくわからんのんじゃないかなあ」
「続きものなん?」
「どうなんやろう。評判がよければ続きを作るんかなあ。お客さんは多かったんだけど、本来の客層じゃない人たちが、なんか気の毒なかんじじゃった」
「どんな人たち?」
「うーん、親が連れてきてくれたけど、原作を読んでない小学校低学年くらいのお子様には、あの内容で110分は、つらそうやったなあ」
「そうなんや。集中力がもたない、か」
ドラえもんとかなら、また、違うんじゃろうけど、親のほうもまあ、アニメで、ブッダなら、ま、いいかな、と思って連れてきたんか、自分が原作読んでて見たくて連れてきたんか、わからんけど、途中で何回も子どもに、しっ、静かに、じっとしてなさい、って注意するんだけど、無理やろうなあ、というかんじ。そういう家族がいくつもいた」
「そんなにいっぱいお客さんが来てるのって、珍しいね、よかったね」
お客さんが多くて、商売繁盛よかったねえ、であることと、自分がその場でのその時間をじっくりと快適に過ごすこととの、兼ね合いや加減は難しい。
お客さんが多いと、商売繁盛ではあるのだけど、人が多いぶん、パーソナルスペースが小さくなることに伴って、人ごみに疲れる、など、快が低下する現象がある。
かといって、お客さんが少ないのは、パーソナルスペースを広く保つことができるぶん、ゆったりとしたくつろぎが増して快適ではあるけれども、いつもお客さんが少ないと、その施設が施設として経営を継続することが難しくなる。
わたしは人が少ないほうが得意なので、利用者が多すぎない施設を愛用する傾向があるのだが、そういう施設は経営を成り立たせるのが簡単ではないようで、突然の閉店や廃業により、継続利用がかなわなくなることがよくある。
夫は「みそきちが気に入るような商売をしていたら、経営が危ない、ということだから、みそきちが、ここ好きだなあ、って言って頻繁に利用するようになったところは、大衆のツボを外した商いをしているかもしれないという危機感を持ったほうがいい」とよく言う。
しかし、わたしが気に入っても経営が大丈夫なところと、経営が傾くところとには、当然だが、わたしが気に入るかどうか以外の要因の差がきっとあるはず。それがなにであるのかは、しかとはわからないけれども。