プラセボと会津大仏

五月六日朝。宿の食事は朝八時から大広間で。本館の大広間とは別の別館の大広間にて。
朝風呂も、朝岩盤浴もせず、起床後部屋で豆乳を入れた紅茶を飲んでから、広間に行く。
そうそう。豆乳といえば、旅行中持ち歩いている紙パック入りの200ml入り豆乳を、車の中に置き忘れてきた。チェックイン後しばらくしてそのことに気づいたわたしが「どうしよう、車まで取りに行ってこようかな」とつぶやいたら、夫が「豆乳なら、エレベーターの横の自動販売機で売ってたよ」と教えてくれた。それならよかった、と安心して、夕食後に自動販売機のところまで行ってみたら、普段なかなか手に入らない種類の豆乳が取り扱われていて、これはうれしいことだなあ、この豆乳、前から飲んでみたかったから、こうして買えてよかったなあ、車の中に持参の豆乳を置き忘れてきたのは、この豆乳と出会うためだったのかもねえ、と、いろいろ勝手に納得しながら二本購入。そのうちの一本は、夜のうちに豆乳単品でおいしく飲み干した。そして残りの一本を、翌朝の紅茶に混ぜて飲んで、これもおいしくいただいた。
さて、五月六日の朝ごはんの話に戻る。
大広間に入ると、昨夜、部屋で食事の世話をしてくださった方と、もう一人別の女性スタッフの人と、二人体制で朝食の対応をされている。昨夜の人は、わたしたちを見つけると「おはようございます。昨夜は、ほんとうに申し訳ございませんでした。お席はこちらです」と案内してくださる。朝食もすべてきちんと五葷がないようにしてあり、安心していただく。
部屋に戻ってから、もう一度、お布団に入る。九時半くらいまでウトウトとして、そろそろ出かける支度をしようかな、と、思ってお布団の上に座る。夫は洗面台のところで歯磨きをシャコシャコとしている。
同じ階の他のお客様たちは、すでにチェックアウトされたようで、清掃スタッフの方達が活動する音が聞こえる。
わたしがお布団の上に、ほぼ下着だけのような格好で寝ぼけて座っているところに、こんこんとドアが叩かれる。こちらが「はあい」と応えるより早く、ドアが開かれる。ドアを開けた清掃スタッフの女性の方は、わたしが目の前にいるのを見て、しかもほぼ下着姿なのを見て、「も、申し訳ございません。失礼いたしましたっ」と言って慌ててドアを閉める。
夫が「こんな遅くまで部屋に残ってるやつは珍しいんやろうな。居ないものと思って掃除に来たら、いてびっくり」と言う。
「まあ、そういうこともあるよね」と、寝ぼけから少しずつ復活したわたしは、出立の準備をする。
二度寝の前に荷造りは既に終えてあり、あとは、ささっと着替えるだけ。ああ、ゆっくりくつろいだね、と、部屋にお礼を伝えてからフロントに向かう。
夫がチェックアウトの支払いをしている間に、売店の商品を眺める。そこに、温泉をより効果的に利用するための指南書のような本が置かれている。
これは、もしかして、と思って、ぱらぱらとめくって見ると、やはり、大浴場や部屋の案内書に書かれていた文章と同じ内容。大浴場の掲示にも、部屋の案内書にも、この本の著者の名前とこの本の名前が書いてあったから、あの文章はこの本からの引用なのは間違いない。そして、その内容を確認したわたしは、精算業務の済んだフロントに、その本を持って行く。
夫が「買うの?」と言うから、「ううん、違う」と言ってから、フロントの人に声をかける。
「こちらの本のこのページのこの部分が、大浴場と部屋の案内書に書き写してあるのを見ました。お風呂の入り方などが詳しく説明してあって、すごくおもしろかったのですが」
「はい。ありがとうございます」
「ただですね、実は、この本のこのページのここの言葉がですね、本は、プラセボ、と書いてあるのですが、大浴場と部屋の紙の方は、プラボ、になってたんです。暗示効果というような意味で、プラセボ、か、プラシボ、という言い方をすることが多いので、プラボという言い方もあるのかなあ、と、考えながら見てたのですが、どうも書き写し(入力)間違いのようですから、大浴場とお部屋の、プラボ、のところだけ訂正されたほうがよろしいかと思います」
「えっ、あっ、そうでしたか。こちらのページのこの部分ですね。のちほど、確認してみます」
それから、玄関前まで持ってきてもらった車に乗って出発する。夫が「昨日してた、プラボの話、よく思い出したなあ」と言うから、「プラセボ好きとしては、プラボは気になってたもん。売店で、本があったから見てみた。やっぱりね、著者としては、引用してもらうからには、誤字脱字のない状態で引用してもらいたいだろうと思うのよ。あのままだと、わたし、大浴場と部屋にあった紙の、温泉カウンセラーっぽい著者の人の名前と、ああ、この人、プラセボを間違ってプラボって書いてはるわー、っていう印象だけが残ったまんまだったもん。著者の人が間違ってるわけじゃなくて、旅館の書き写す係の人が間違ってたのがわかって、よかったけど、そのままでは、著者の人が気の毒かな、と思ったけん、言うだけ言うといた」と説明する。
宿を出たら、すぐ近くの「会津大仏」を見に行く。桜が散り始めた頃で、大仏さまは一番奥のガラス張りのお部屋の中に安置されていて、夫と「丁寧に保存されてるなあ」「小浜の仏像たちも、せめてこれくらいの保存状態にしてあげたいなあ」「ああ、あそこのはどこの仏像も立派なのに、国宝なのに、保存環境ちょっと厳しいところがちょくちょくあるもんなあ」と感心する。
大仏さまを見たあと、歩いて車に戻るわたしの姿を、夫がカメラで撮影する。今回旅行中初めての写真撮影かもしれない。
夫が「そろそろ、いい加減に、デジタルカメラに買い替えの時期かなあ」と言う。
「どうやらくん、その台詞、たぶん八年以上前くらいから、旅行のたびに、同じこと言うよね。いつでも、とっくに、買い替えていいと思うよ」
「おれが大学生のときに買ったやっすいカメラだからなあ、もう十分元とってるよなあ、これ。だいたいフィルム一本使い切るのに、二三年かかるから、現像したときに、すごく懐かしい写真ができあがるのも、まあ、悪くはないんだけど」
「うん。わたし、このカメラで撮った写真、好きよ。これまでいろんなところに一緒に旅行についてきてくれたよね、この人。ついてくるだけで、カメラとしての仕事をさせてもらってないことが多いけど」
デジタルカメラだったら、もっとたくさん写真撮るようになるんじゃないかなあ」
「どうかなあ、どうじゃろうね」
会津の大仏さまとお別れをして、今宵の逗留地、月岡温泉を目指して、福島県から新潟県に向かう。