立山散歩そのニ

九月二十三日午前。車のナビに「立山駅」を設定し、北陸自動車道を走る。夫が運転してくれるから、私は助手席で秋の風景をゆっくりと眺める。天気予報どおりの晴れで、北陸地方では珍しい入道雲が浮かぶ。
夫が「立山で、みそきちも雷鳥が見れたらいいなあ」と言う。夫は少し前に立山登山したときに雷鳥を見て大きな満足感をおぼえたらしい。
雷鳥はその生息地域が限定的であることと、生息数が多いわけではないこともあり、特別天然記念物とされているとのこと。
しかし、希少なものや有名なものを見聞することに関してそれほど高い興味を示す傾向がない(自分が見聞したいかどうかは多寡や有名無名によらず、何か別のことが基準になっている気がする)私にとっては、「雷鳥ですか、まあ、そこにいらっしゃればお会いいたしますけれど、雷鳥にも雷鳥の暮らしがあるでしょうから、雷鳥さん、無理なさらなくていいですよ」と内心思う。
車中で夫とあれこれ話してて、「そういえば、最近、考えていることがあってね。自分にとって『したいこと』『したくないこと』と『できること』『できないこと』を座標に置いて考えることなんだけどね」という話を始める。
「たとえば、縦軸の上方向には『できる』下方向には『できない』を置いて、それと垂直に交差する横軸の交差点を0として、右を『したい』左を『したくない』にしてね、それぞれの座標について考えるの」
「ほうほう、マトリックスっていうことやな」
マトリックスなん?」
「縦軸と横軸で区切られた四角いスペースごとに見るんやろ。マトリックスやろ」
「ふうん、そうなんや。でね、この座標を見た時に、右上の『できる』『したい』の組み合わせのところと、左下の『できない』『したくない』の組み合わせのところにおける心情は、快や本意や安心が入るみたいなん」
「そりゃあ、まあ、そうやろうなあ」
「ただ、『できる』『したい』のところにはわりと積極的な満足やよろこびがあると思うんだけど、『できない』『したくない』のほうは積極的な満足やよろこびや感謝とは違う種類の本意だけどもう少し地味で静かな感情が来るかんじがするん。安堵とか安寧とか平安とか、かな」
「で?」
「でね、自分がしたいことができると嬉しくてさらにもっと上手にそれができるようになりたくなることが多いかなあと思って、とりあえず右上の区画の名前は『満足追求』にしてみたん。もちろん『満足』だけで『追求』が伴わないこともあるだろうし、『追求』は強くあるけれど『満足』度合いは低いことあるだろうし、いろいろだとは思うん。で、左下の、自分がしたくないしできもしないことのところは『安堵平安』とかかなあ、と思うんだけど、ぴったりな言葉はまだもうちょっと考え中」
「他のところは?」
「右下の、自分が『したい』けど『できない』ところには『欲求欲望』が入るかなあ、と思うんだけど、ここの区画のものは、欲求を持って、それがかなったときには、右上の区画に移動する」
「まあ、そうだなあ」
「それは、他の区画もそうなんだけど、どの区画のものも、他の区画に移動しうるよね。ただ、左上の、自分ができることだけどしたくないこと、っていうのが、私はなかなか自分のことで思いつかなくて、自分に関して思いつくことはほとんどが『できる』『したい』区画に入る気がして、たとえ『したい』の度合いが低くても限りなく0に近くても『したくない』と明確に思うほどのことって何があるかなあ、と考えて考えて、ようやくいくつか見つかったんだけどね、ここの区分の名称は『葛藤侮蔑』だなあ、と思った」
「葛藤?」
「うん。自分はしたくないんだけど、できないわけではないから、たとえば、強要されたりしたときにはできてしまうからしてしまう、というのは、自分の中で葛藤が生じると思うのよ」
「なるほどね。葛藤やな、それは。でも、侮蔑ってなんなん、侮蔑って」
「うーん、さっきの、自分は本当はそんなことしたくないのに強要されたとはいえそんなことをしてしまった自分を悔いるときに自分に対して抱く感情が侮蔑になることがあるかもしれないし、他人だったら、たとえば、こうやって高速道路を走行していて、後続車が意味なく煽ってきたりとか、無意味に無理な追い越しをかけてきたりしたときに、基本的には、ああ、この人下痢で切羽詰ってはるねんなあ、のっぴきならないお腹の状態で急いでトイレに向かってはるんやなあ、と思うことにしてるんだけど、そうでないとしたら、ああ、この人は、ドライバー各自が交通安全を協力し合うべき路上でこんな振る舞いをしちゃうくらいに、いろいろとかわいそうで気の毒な人なんだなあ、と思うわけよ。その、自分だったらこうはしないなあしたくないなあ、それなのにそんなことをしてしまうだなんてかわいそうで気の毒な人ならではだよねえ、というのは、侮蔑なんじゃないかなあ、と思うのよ」
「それは、まさに侮蔑以外のなにものでもないとは思うけど、そこでなんで侮蔑なん? そこは嫌悪とか怒りでもいいんじゃないん?」
「うーん。そこで煽ってきた後続車の人に嫌悪とか怒りを抱くときよりも、あーあ、この人かわいそうやなあ、と思うほうが、自分の中のエネルギーの消耗が少なくて、気持ちが穏やかに保てるような気がするんだけど」
「そりゃあ、たしかに穏やかではあるやろう、そんだけ上から目線だったら。でも、侮蔑って、侮蔑って、みそきち、さすが王様やなあ」
「王様って?」
「ゆるがない上から目線が」
「うーん、そうかなあ。でもね、私は私なりに世界平和を願っててね、世界平和を願ったり目指したりする、というのは、まず自分の身体や気持ちが自分にとって望ましい状態で穏やかな状態であるように努めることだと思ってるん。そりゃあ、自分のやりたいことをやるために自分を鼓舞して集中や興奮度合いを高く保つのが望ましいこともあるし、自分がこれは嫌だと感じることをきちんと断ったり距離をおいたりすることが必要な時にはある程度の鼓舞と集中を持ってそうするけれど、煽り運転をする人には「いやです」「離れてください」の意思表示する方法が今のところないでしょ。そういう状況で煽り運転をする人に対して自分が嫌悪したり怒ったりして興奮して疲れるのはもったいないというか。それなら便宜的に侮蔑を選ぶことで自分の気持ちを穏やかに保てるならそうしたいし、煽り運転をする人を煽り運転しないように矯正教育するのに比べたら手間が劇的に少なくて簡単で自分の手元で自分で采配しやすい。他人の言動や思考や気持ちを自分がコントロールするのは簡単じゃないけど、自分の言動や思考や気持ちなら自分でコントロールできる。もちろん侮蔑という行為そのものは、自分にとっては『したい』度合いは限りなく低いことだけど、しようと思えばできるし、必要ならば、必要っていうのは多くの場合は自分の安寧を保つためだと思うけど、そのためにしたい度合いの低い『侮蔑』をする程度の覚悟はとっくに十分できてるよ」
「うん、王様。侮蔑などということはできればしないほうがいいんじゃないかなあ、とは思わないんですね」
「侮蔑しなくて済むならそれがいいけれど、しないほうがいいことをしている人に対して、教育や指導ができる間柄にあるならそうすると思うけど、煽り運転の人にはそうできるわけじゃないから、そうできるわけじゃない状況で自分の気持ちを穏やかに保って落ち着いて運転をし続けるためのテクニックとして『侮蔑』という手法をとるのは、それはそれでありだと思う。自分が、それはそれでありとすることに関しては、本当は侮蔑なんかしないほうがいいのに侮蔑なんかしたくないのに、ってうじうじ考えても思ってもしゃあないでしょ。侮蔑するなら侮蔑するで、すぱっとすっきりと侮蔑しないと侮蔑のエネルギー発動が中途半端になって効果が半減するから」
「ははーっ、王様ー。煽り運転は、自分もやってできなくはない、つまり『できる』だけど『したくない』いうわけですね、王様」
「そうなん。あとね、うざい、っていう言葉を使うのも、やってできなくはないから、『できる』だけど、『したくない』ことだなあ、って気がついた」
「はあ、なんで?」
「んーとね、『うざい』は、たしかに音の数も少ないし、省エネで伝わりやすい語彙だから流行して使われたり全国的に分布したりするんだろうけど、うざい、よりも、うっとおしい、うるさい、しずかにして、今は話しかけないで、なんかに言い方を変えれば変えるほど、その手間をかければかけるほど、その語彙に無意識にのせている攻撃性を抜くことができると思うん。あえて攻撃性を加えたいという意図や意識を持って使うなら、それはそれで演出だろうけど、受け取る側も『ああ、例の攻撃性演出過多の語彙ね』と思ってそのつもりで受け止めるほうがむやみに傷つかなくて済むと思うし。だから私は、うざい、は使いたくないという意志を持ってその言葉を使わないし、もしも自分に対して使う人がいてもそれを真に受ける気もいちいち傷ついてあげる気もない。ああ、この人は他の言い方に言い換えるだけの思いやりのできない残念な人やねんな、と思うか、あ、これ、侮蔑やね、私に対して「うざい」と言うその人と私の関係性はお互いに相手を大切な人と思って関係を紡いだり維持したりするに値しないってことやねんな、と思う。他人ならまったく迷いなくそう思う。残念なことではあるけれど、それくらいの残念は普通にあると思うからそれをいちいち嫌がる気はない。もしも自分が養育している反抗期の子どもが反抗期の症状として親の私に対して、うざい、って言うぶんは、まあ、教育や指導が可能な関係性のうちだから、それはそれで教育指導したり、それでも言うこと聞かない反抗期っぷりを見せたり、いろいろなんじゃないかな。でもその子の反抗期が終わっても、大人になっても、いくら私が教育指導しても、私に対して『うざい』を繰り返すような子(大人だけど)のときには、自分のその子に対する教育指導力の至らなさが残念で葛藤が生じて自分やその子に侮蔑の感情が湧くんかなー、侮蔑の前段階は怒りや嫌悪かもしれんけど、どうやろうね、わからんね」
「でも、そういう言葉の細かい使い分けにあんまりこだわっていると、どんどんそういう言葉にこだわる地獄に堕ちるよ」
「あ、それなら、大丈夫。私、もう、すでに、とっくに、言葉にこだわる地獄にどっぷり堕ちてる自覚あるから。自分のこういうところは『業(ごう)』だっていう自覚もあるから。安心して」
「業、やなあ、ほんまに、難儀そうやなあ」
「難儀、か、なー」
「王様が難儀を感じてないぶん、こっちが難儀ですわ」
「んー、そっか、なー。でもね、こういう業があるということは、そういう任にもあるということだと思うん」
「任って、任って、どこからの任?」
「どこやろうか」
「はっきり言って、誰も頼んでないと思うんですが。勝手に任とか思ってはるみたいですけど」
「ほんとやねー。少なくとも、どうやらくんには頼まれてないね。じゃ、誰が頼んだんかなー。お天道様?」
「王様ー!」


立山までの道のりはまだあと150kmくらい。