山と温泉そのニ

十一月四日の朝。宿の近くにある雨飾山登山に出かける夫が起きだす。私は目を覚ました状態でお布団の中でぬくぬくと過ごす。
前夜頼んでいたおにぎりと冷蔵庫であずかってもらっていた豆乳を受け取って部屋に戻り、夫は「朝ごはん食べようっと」と言って部屋の縁側の椅子に腰掛けておにぎりを食べる。私のぶんのおにぎりは卓の上に「これみそきちどんさんのぶんね」と置いてくれる。
夫がおにぎりを食べている間に「私、お風呂入ってくる」と言うと、夫は「じゃあ鍵持って行って。おれ、これ食べたらすぐ出るし」と言うけれど、「五分以内に戻ってくるから待ってて」と言ってからお風呂へ。温泉のお湯で顔を洗って体を温めてしゃきっとする。
部屋に戻ると夫が「さっき気づいたんだけど、おれの靴がなくなってた」と言う。
「誰か間違えたんかな」
「宿の人に言ったら、もしかすると昨夜の日帰り温泉利用の誰かが間違えて履いて帰られたかもしれないですねえ、ご近所の方で気づいてくださるといいんですが、って言ってはった。みそきちも念のために自分の靴があるかどうか確認したほうがいいよ」
「わかった、みてみる。どうやらくんの靴、誰か間違えて履いて帰った人の靴と似てたんかなあ」
「似てても気づくやろう、ふつう」
「まあ、とりあえず車の中に登山靴があってよかったね」
「ほんまやわ。ま、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい。下まで見送るよ」
部屋を出て階段を降り、玄関で下駄箱を見る。
「ああ、たしかに私たちが靴を置いていた場所は、人様の手が伸びやすい位置だわ。あ、大丈夫、私の靴はちゃんとある。この場所は人の手が伸びやすいから、ぐっと高いところかぐっと低いところに置いたほうがいいね。というわけで、右下の隅っこのここに置こう。さっきの場所の下の段にあるこの黒い運動靴、これが間違った人の靴かもしれんねえ、一段違いだと間違えちゃうかもねえ」
「黒い運動靴、という以外の共通点は何もないのに、デザインも全然違うのに、間違えるかなあ」
「間違えるときは間違えるもんなんよー。じゃ、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
夫は登山靴を履いて玄関を出て、ややウキウキ加減で駐車場へ行く。私はふと自分を見ると、宿の浴衣の胸元がはだけて片方の胸がべろりんと見えている。夫よ、いくら心が山に奪われていても、妻の胸がはだけているときには指摘して胸を衣類の中に片付けるように促そうよ。