山と温泉その五

夫が山から帰ってきて、宿のお風呂に入ってから部屋に戻る。キノコは冷蔵庫で保存して一週間位はもつらしい、という情報を得る。
夫が雨飾山デジタルカメラで撮影した写真を見せてくれる。お日様の光が明るくて写真の色はすべて鮮やか。
宿から山まで近いからと朝七時前に出かけて、七時四十分頃駐車場に着いて登り始めたけれど、その時点ですでに登り始め後半組みだったのだとか。
登山口駐車場に停まっている車のナンバープレートはいろいろな地方のもので、みなさんわざわざ遠方から登りに来るなんてお好きですなあ、と思ったと夫は言うけれど、そういう君もその一人だろう、と思う。
写真を見終えると夫が「すぐ近くに露天風呂があったから入りに行こうか」と私を誘う。
すぐ近くなら、と、気軽にタオル二枚だけ持って車に乗る。夫が運転してくれるが、工事渋滞でしばしじっとした後、なんだか山奥に向かう様子。えーと、露天風呂はすぐ近くなのではないのですか、と確認すると、「あともう三十分くらいかな」と夫が気楽そうに言う。
えー、そんな遠くに行くなら行くで、そのつもりで飲み物や食べ物も持ってきたかったー、そんな遠くには行きたくないー、車で三十分以上かかるならその情報は先にちょうだいー、遠くなら化粧水も持ってきてお風呂上りに顔につけたいから持ってきたかったー、と文句を言う。
山奥に向かう山道の脇に小さな商店がある。夫がそこで車を停めて「何か食べるものと飲むものを買おう」と言う。私がぐずぐず言うときには、とりあえず何か食べ物と飲み物を与えるのが得策であると夫なりに学習しているのか。
お店の中に入ってみる。商品があるにはあるのだけど、どれを買おうか迷うほどに品数が少なく欲しい種類のものがない。うーん、でもとりあえず血糖値を上げやすいもので、成分的に私が摂取しても安全なもので、と考えて、袋入り個包装のみたらし団子(大袋の中に一個一個個包装された団子が十数個入っている)を買い求める。このお菓子、見た目は小さな大福(マシュマロとお餅の混合)なのだが、その大福の中にみたらしのたれが入っている。
飲み物は、店内の冷蔵庫にはあまりに在庫が少なくて、外の自動販売機で買いましょう、ということに。外の自動販売機でペットボトル入り麦茶を夫に買ってもらっている間に、もう一度お店に入ってトイレを借りる。
トイレで用を済ませて、「使用後はこのボタンを押してください」のボタンを押すけれど、ボタンが押せず、水が流れない。タンクの水がないからだろうか、と、水の蛇口を動かしてみるが、タンク(和式便器の前側にある)に水が入るのは見えるけどなんだかもういっぱい入っているかんじでこれ以上入れたら溢れそう。
私が入った個室のトイレがたまたま壊れているのだろうか、他の個室なら流れるのかしら、と、他の個室のトイレの同じ位置にあるボタンを押してみるが、やはり押せない。うーん、うーん、どうしたものだろうか、簡易水洗トイレを使うのは久しぶりで使い勝手を忘れているのだろうか。
これはもはや致し方なし、と判断して、お店のレジのおじちゃんに「すみません、トイレの水の流し方がわからないので教えてください」と訊くことにする。レジのおじちゃんは「あー、ごめんごめん、ここのトイレの水洗ボタン壊れてて動かないんやわー。トイレの前のタンクに入ってるホースがあったやろ。あのホースを抜いて、ホースの元のところにある蛇口をひねって水を出して、ホースの水を直接便器に入れて流すんや」と教えてくれる。
なるほど、そうか、と教えてもらったとおりにする。きれいに流れる。
車の中で待つ夫に「ここのトイレ、超難関やった」と報告する。夫が「何が?」と言うからトイレの事情を話す。
出すものを出して、新たな水分(麦茶)を飲んで、個包装みたらし団子を食べて、安心して三十分先の温泉まで助手席でおとなしく過ごす。
夫が「このへんとか、このへんとか、紅葉がまあまあ見所かな、きれいかな、と思って。車窓からの秋の景色をご堪能ください」と言う。
到着したところは、雨飾山の手前にある雨飾温泉の手前にある露天風呂。男女別に岩風呂と脱衣所があり、備え付けの木の箱の中に各人で適当な金額を投入する。
女湯には先客がお一人。こんにちは、と挨拶をして、備え付けのケロリン洗面器関東版で身体を流してからお湯に入る。少し熱めかなあ。
湯船の中から空を眺めると、周りの木々の紅葉と葉が落ちた樹木の枝が毛細血管のように見えて深い秋をおぼえる。
先客の女性の方はまだゆっくりとお湯から出たり入ったりしていらっしゃるけれど、私は「お先に失礼します」と挨拶をしてお湯から出る。脱衣所で着替えていると、若い女性がやってきて「女湯、ここでいいんですか」と訊かれる。「はい、ここです、こんにちは」と返す。若い女性は「わあ、すごいなあ」と感嘆しながら靴を脱ぐ。着替え終えた私は「ではお先に」と脱衣所(ただ屋根と片側に壁があるだけの建物)を出る。
坂道を下りながら男湯のほうを見ると、湯船のふちに裸で腰掛ける男性たちの姿が見える。夫が私に手を振って「すぐ行く」と言う。私は駐車場の手前の道路に佇んで山を眺める。
坂道から下りてきた夫に「紅葉もいいけど、私は、樹の枝が空を背景に毛細血管みたいに見えるのが好きみたい」と言う。
駐車場からは、今日夫が登った雨飾山が見える。標高1930mくらい。ずいぶん遠くに高く見える。すごいねえ、あのてっぺんに立ったんだねえ、と感心する。雨飾山は雨がよく降るところからその名前がついているらしく、今日登った人々は何度も「晴れててよかったねえ」と話していたのだとか。
夫は「いい露天風呂だったじゃろ。きた甲斐があったやろ」と言う。夫がぜひともこれは私にも、と思ってくれたことはありがたいが、今度何かに誘ってもらったときには、予定所要時間などの情報を確認して私に必要な準備をする習慣をつけよう、と、今回はこれまで以上に強く思ったから、そろそろ上手にそうできるようになるといいな。