山と温泉その八

今回の旅行で実験しようと思っていたのは、朝食時間に合わせてその二時間半前に起きてみること。
つまり、朝八時の朝食であれば五時半に起きてみる。
なぜならば、私は起きてから食事らしい食事ができるようになるまでに二時間半程度かかるらしい、ということが、最近の観察でわかってきたから。
これまで旅先では、宿の朝食を宿の朝食の時間に宿の朝食の内容で食べるとその後の身体の調子がよくないため、宿泊予約は朝食なしで予約して、朝起きたら自室で紅茶豆乳を入れて飲んで身体の乾きを潤してから、ゆっくりとサプリメントを飲んで、それから持参のみかんやビスケットなど私の胃腸にとって午前中に摂取してもラクなものを少し食べてからチェックアウトしていた。そうすると十一時を過ぎた頃に旅先のお昼ごはんを非常に美味しく食べることができるから。
そうせずに宿のしっかりとした朝ごはんを食べると、もうそれだけで午後ニ時すぎくらいまでお腹いっぱいで他のものを食べることができなくなる。
旅先のお昼ごはんは旅先のその地ならではの食べたいものを食べるチャンスであるが、宿の朝ごはんというのは旅先であってもそれほどその地の地元色が強く出るわけではないので、それでお腹いっぱいになってしまって他のものが食べられなくなるのはたいへんに惜しい。
宿の朝食を食べずに自室で豆乳紅茶中心で軽く済ませておくと、チェックアウトしたあとまもなく、ソフトクリーム食べようかなあ、だとか、カフェでケーキセット食べようかなあ、だとか、玉こんを食べようかなあ、だとか、いろいろと選択肢が湧いてきて、旅の楽しさが増す。
しかし、私のこの傾向は、たとえば朝八時の宿の朝食に間に合うように七時なり七時半なりに起きたときに、起床時から食事摂取までの時間が不十分だからなのではないか、と思い、朝八時に美味しく食事をとるには、そしてその後の身体がつらくないようであるためにはどれくらい前に起きるといいのかな、というのを観察してみようということにして、いろいろと自宅にて実験を行なってみた。
そうしたところ、朝起きて、うがいをして顔を洗って化粧水をつけてから、豆乳紅茶を500cc以上飲み、サプリメントを飲んで、おいしく朝ごはんを食べてなおかつその後がつらくないようにするためには、しっかりと内容の朝ごはんを摂取する時刻の約二時間半前、できることなら三時間前に起きておくのがよいようだ、ということがわかった。
この観察結果を応用して、今回はチェックアウトの日の宿の朝ごはんをいただく方向で予約して、前日の夜に早めに寝て、最終日の朝五時半起床にしてみましょう、ということで旅先の宿における実験と観察開始。
実際に、来馬温泉の宿で朝五時半に起きてみると、世の中はまだたいへんに薄暗くて、小谷の村は山に囲まれ特に東側には高い山があるから朝陽の姿が見えるのが遅いけれど、寝間着から浴衣に着替えてお風呂で温泉に入る。
温泉のお湯でうがいをして顔を洗って、身体を湯船に少しずつ浸して温める。最初は足だけ、それから脚を、そのあと腰まで、それから胸まで、最後に体全体がつかるように湯船の縁を手で持って伏し浮きになる。
ときどき窓を開けたところから入る外の空気を吸って外の景色を見る。何度か湯船の縁に座って休憩しては、また、順繰りに身体の先から湯に浸してゆく。
湯船の中でお腹とふとももとふくらはぎとをむにむにと揉んで、足の指を手の指で前後左右に動かして開く。足の甲を手の指先でぐにぐにすりすりと触って、血液とリンパ液などが足先から心臓方向に流れやすいように促す。
はふう、気持よかったねえ、あったまったねえ、と感じたら、お風呂からからあがる。
浴衣を羽織って部屋に戻る。午前中はカフェイン飲料が飲めるから、宿の備え付けの緑茶を入れて飲む。ああ、おいしい。
お風呂上りの顔に化粧水とクリームをぬって、顔面と首筋とデコルテをマッサージする。
部屋の窓を全開にして風を通して、敷いたままのお布団に見を横たえてタオルで汗を吹きながら、お風呂上りの火照って汗ばんだ身体を冷ます。
七時半になったら夫に「あと三十分で朝ごはんだよ」と声をかける。夫はお布団の中から「わかった、ありがとう」と言う。
八時になって、一階の食堂に降りる。朝ごはんは和食。おひつに入ったおいしい白米と味噌汁と、お盆の上に整然と並ぶ小さな小鉢にそれぞれいろんなおかずが少しずつ入ったお膳。
朝ごはんを食べるのは、夫と私と、親孝行の息子とその母ペアの二組。四人とも同じメニュー。お仕事三人組のお兄さんたちは食堂での朝食はとらずに部屋からいろんな荷物を玄関先に運び出す作業を少しずつしていらっしゃる様子。
おかずの小鉢のなかに納豆があり、ネギの小口切りがのっている。夫に頼んでネギを引きとってもらう。
宿の人がみそ汁を運んで来てくださる。私のみそ汁にもネギが浮かんでいる。そのまま残すことも考えたが、味噌汁を見て具のはまぐりとキノコが少し食べたいなと思ったから、「すみません、みそ汁をネギの入っていないものに交換していただけますか」と頼んでみる。
宿の人は「はっ、そうでした、すみません。すぐに入れなおしてまいります」と厨房に入られてから、新しいみそ汁を持ってきてくださる。が、まだわずかにネギが浮かんでおり、夫が「これはネギのないみそ汁を入れた、というよりは、さっきのみそ汁からネギをすくって取り去ったつもりで取り去り切れていない状態なのではないか」と言う。ということは、このみそ汁にはネギエキスがしみ出しているから、頭痛対策的には危険度が高い。けれど、はまぐりとキノコとみそ汁をほんの少しずつ食べて飲みたかったから、はまぐりひとつ、キノコひとつ、みそ汁大さじ二杯くらい、をいただいて、あとは残す。
夫が「みそきちどんさん、これも危ないんちゃうかなあ」と、小鉢のひとつである辛子明太子ならぬ「からし甘エビ(甘エビを唐辛子液につけて軽く発酵させてあるかんじ)」を指さす。いかにもおいしそう。夫は「これむっちゃうまいんやけど」と言うから、ああ、唐辛子も頭痛対策的にはアウトなのだけど、食べてみないわけにはいかないではないか、とひとついただく。ああおいしい。イカの塩辛はあまり得意ではないけれど、この甘エビの微発酵はおいしいわあ、と満足する。残りの甘エビはやめておく、と言うと、夫が「じゃ、全部もらうねっ」と小鉢ごと自分の膳にのせる。
朝ごはん全体をおいしくごちそうさまでした、と、ほぼたいらげて部屋に戻る。
朝五時半に起きて八時に朝食にしたおかげで、食べている最中も食べたあともいつもの苦しい無理している感覚が少ない。時間配分に関してはこれはこれで一応成功のようではある。
しかし、欲望にまかせてネギエキス入りの味噌汁と唐辛子エキスつきの甘エビを食べたため、食後二十分弱したころから、じわりんじわりんと眼球の周囲から頭部にかけて痛みが発生する。ああ、やはりくるか、と覚悟はしていたから、さっさと頭痛対策の漢方薬茱萸湯(ごしゅゆとう)をお湯に溶かして、その香りを嗅ぎながら少しずつ飲む。五葷を摂取していないときの軽い頭痛であれば、この呉茱萸湯を飲むだけですうっと引くことが多くなったから期待したのだけれども、五葷を摂取したあとの頭痛は呉茱萸湯だけでは引きにくいらしく、引き続き痛みがあるので、ここはさっさとポンタールを飲む。
食後の通常の歯磨きよりも少し丁寧な五葷摂取後対策としての歯磨きと歯茎磨きとフロスかけと緑茶うがいをする。そして排尿と排便を熱心にする。できるだけ息を深く吐いて新鮮な空気を丁寧に吸う。身体でここは冷えてるかなと感じるところはウォーマーやカイロで保温や加温をする。
これで五葷摂取後にできることはした。あとは体内の五葷成分が外に出てしまうまでの間を、おとなしく過ごしてやり過ごすのみだ。
夫が「夕ごはんは二晩とも、事前に抜いてくださいって頼んでおいた食材、殆どきちんと抜いてあったのになあ」と言う。
「なかなかねえ、食事を作って出してくれる人も、連泊の最終日の朝までは、そういう特異なリクエストに対して、そのへんの集中力というか注意力というか、なんかそういうものの持続が難しいんかもしれんねえ。納豆のネギと味噌汁のネギが外してさえあれば、小鉢の唐辛子の甘エビなんかはもう私の判断で食べなければ済むことで、ほぼ完璧だったんだろうけど、私がまだまだ、あるとつい食べたくなって抑制が効かないあたりにも課題があるから余計に」
「旅の高揚感もあるから、いつもよりも興奮して食べてしまいやすくなるしなあ」
「そうなんよねえ。目の前になければ食べないし、食べようとも思わないから、私みたいなタイプには、ああいうちゃんとした朝ごはん、場合によっては五葷がまぎれこむ可能性の高い内容の朝ごはんを用意してもらうよりも、昨日の朝作ってもらったみたいなおにぎりだけにしてもらって、他のものは見ないようにするのが安全なんかもしれん」
「うん。昨日のおにぎりはうまかった。ここの宿は山登りお客さん用におにぎり対応してくれてるのがわかったから、今度からは山に登る時も登らないときも、朝ごはんにおにぎりをお願いしておくのがいいかもしれん」
「どうやらくんもおにぎりでいいん?」
「うん、おれは普通の朝ごはんでもいいけど、おにぎりでもいい。朝をおにぎりだけにしとくとお昼にしっかりお腹がすいて、食べたいものをおいしく食べられるし」
「うん、じゃあ、今度から、宿の朝ごはんは、おにぎり対応してもらえればそれにして、対応のないところのときには、これまでどおり買い置きや持参のパンとかそういうのにする」
その後宿をチェックアウトして、一路自宅に向かいながら自分の身体やお腹のかんじと頭痛のその後を観察する。
朝食までに二時間半の間を置いているから、いつものような苦しい感じは少ないが、それでもやはり、私の身体にとっては、あまりたくさんのものを摂取しないほうがラクな時間帯に多くのものを食べた時特有の軽い不快感がある。
朝食後に仕事などでエネルギーが必要な場合には仕方がないとしても、休日に旅先で過ごすぶんには、無理に朝の八時前後にたくさんのものを食べなくても、身体にとって食べても調子の良い時間帯になってから少しずつ時間をかけて食べたいと感じるものを食べるほうがよさそうだなあ、と思う。
夫にもそう話して、今回は実験と観察をしたけれど、今後の宿泊予約は、やはり宿の定番の朝食はなしで、特別におにぎりを作ってもらって部屋でチェックアウトまでの時間の間にゆっくりと時間をかけて食べるか、温泉饅頭とかなにか手持ちのものを食べるかにする、と今一度新たに決意する。
宿の朝ごはんを宿の人が世話してくださる状態でいただくと、食事にかける時間を十五分から三十分前後ですませてしまう、済ませてしまおうとしてしまうのも、私の身体には負担があるのだろうと思う。
自室であれば、おにぎりであってもお菓子であっても果物であっても、何かをちょびっと食べて、しばらくゆっくりとして、またちょびっと食べて、というふうに、一時間以上かけてちびちびと食べることができるのもいいんだろうな。
というわけで、宿の朝食の二時間半前起床実験は無事に完了。
帰路の旅日記はもう少しつづく。