英国王のスピーチ

先週の金曜日が休日で、ケーブルテレビでムービープラスは何を放映しているのかな、とチャンネルを合わせてみたところ「英国王のスピーチ」だったので、ああ、これはうれしいわ、見たかったの、と喜んで視聴。
夫も休日だったのだが、夫は一緒に見ていない。夫はどこにいたのかな、と考えてみて、岐阜県の冠山に行っていたことを思い出す。
英国王ジョージ6世がスピーチをするときに、大意で言うなら「英国国民そして海外にいる国民たち」という意味の語りかけを何度か行う。
この「海外にいる国民たち」という部分を最初はなんとなく在外同胞的な海外在住の英国国民のつもりで、それはまったく無意識のうちに、そう思いながら聞いていた。
しばらくして、これまたふとふとなんとなく、いやまてよ、ジョージ6世は英国王ということは、国王として語りかける民というのは、英国国民に限らず、当時であれば、カナダ、オーストラリア、インド、パキスタン南アフリカなどなど英連邦王国を形成するそれらの国々の民もその対象であったということなのかな、もしかすると、と思う。
王というものは、現在であれば女王は、ロンドンにいる場合でも、その視線と気持ちは、海外の民、つまり、現在であればカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ジャマイカパプアニューギニアソロモン諸島などなどの国々まで思い描いているものなのだろうか。
どちらにしても立憲君主制の国々において民に向けて言葉を語る立場にある人物というのは国家最高位の言霊師であるのだろうなあ、と思う。
映画の中ではマイクの前のジョージ6世の向かい側に言語聴覚部門協力者であるローグさんが立つ。ローグさんはその両腕を大きく広げてジョージ6世を見守る。そしてその両腕を音楽の指揮をするときの形に動かす。静かにリズミカルにテンポよく緩急自在に。彼のその指揮とともにジョージ6世は最初はややぎこちないながらもゆるやかに、そして次第に軽快な楽曲を奏でるかのように、しかし終始一貫して重厚に、語る。
人類の小集団の在り方としては、過去にはいろんな形態があり、現在もあり、今後も各種形態が存在することだろう。どれがよくてどれがよくなくてどれが正しくてどれが正しくないというわけではなく、人類はいろんな形をやってみる実験を重ねてゆくのだろうと思う。
そんな形の中のひとつとして、人が人として佳き方向にあるための言葉を紡ぎ奏でる専門のだれかがいてそれを受けとめる民がいる、そしてともにどこかに向けて各自が各自の持ち場において何かを担い歩む、そんな形を何代も何世代もかけて磨き究める。
今回の視聴は吹き替え版だったが、また今度は英語版日本語字幕付きのほうでもぜひ再び視聴したい。我が家のケーブルテレビが頑張ってその放映を呼び寄せてくれるように応援に励むつもり。