旅の前

連休の旅に出かける少し前の仕事中、あとはもうゆっくりと閉店業務をすればいいだけというそんな時間帯、先輩たちが「どうやらさんはゴールデンウィークのあいだずっとお休みの印になってるけど(職場の勤務表が)今回はどこに行くの?」と私に尋ねる。
「今回は会津磐梯山を目指します。去年も目指すのは目指したのですが天候に恵まれなかったので、今回はお天気のいい日を狙って目指します」
「どうやらさんも登るの?」
「いいえ、わたしは登りません、登りたくありません。登る時にはかならず夫がひとりで登ります」
「じゃあ、どうやらさんはどうするの?」
「熱心にお見送りをして留守番します」
「そうなんだあ、でもそのあとは?」
「温泉宿で、ほよよん、だららん、と、何度もお風呂に入ったり横たわってストレッチしたりするんじゃないでしょうか」
「お宿は、もう決めてあるの?」
「今回は夫が目指すお山に登るためなら予約もきっちりしておきたいらしくて山の麓の温泉宿を二泊予約してくれました。連泊の中日で他のお客さんが殆どいないお宿でお風呂三昧するのってのんびりして好きなんです」
「その二泊以外は?」
「そのあと気が向いたときに気が向いたところで空いていればそこで、ですかねえ。出発までにここと思うところがあればそこに予約するかもですかねえ」
「そんな連休中でも飛び込みで泊まれるの?」
「はい、わりと、なんとかなるみたいで、これまでまだ野宿はしたことないです。ただ宿にカメムシがいるかどうかは泊まってみないとわからないんですよねえ」
カメムシ?」
「はい、わたしカメムシ苦手なんです」
「それはたいていの人がいやだと思うけど、カメムシが旅館にいることなんてあるの?」
「あるんですよう。越冬前後のカメムシが大量発生しているところが。でもなによりも腹が立つのは夫が『カメムシ、別にいてもいいじゃん。みそきち気にしすぎ』っていう態度に出ることですかねえ。あげくの果てにはわたしのおならのにおいは許せないけどカメムシのにおいは平気とか言うのも腹が立つんですよねえ」
「わははは、どうやらさん、それは山男にそんな繊細な配慮を求めるほうが間違ってるわあ。彼らは山に生息する生き物を愛する人たちだもの、カメムシにだっておおらかよ。山男と結婚した時点でそれはあきらめなくちゃ」
「ちがうんです、結婚した時には夫は全然山男じゃなかったんです、ここ数年で急に山男になっただけで」
「でももう山男になったからには仕方ないよ。どうやらさん、これどう? カメムシ避けの吊るすもの(PC画面を指さす)」
「わわ、なんですか、これ。カメムシが侵入しないようにするものなんですね」
「これを旅行かばんと一緒に持ち歩いてお宿ではこれを窓際にかけたら?」
「わー、こんなのあるんだー、初めて知ったー」
「ほら、ほら、どう? ポチって(注文)しようか、送り先自宅にする?」
「いえいえ、待って下さい、また自宅でゆっくり見て発注します。あ、でも、これ、室内に吊るしちゃダメって書いてありますよ。なんかけっこう強力なにおいがするみたいですねえ。これは戸外につるしておいて室内への侵入を防ぐものなのでは。そうかお宿の人がこういうのを買って建物の外に吊るしておけばカメムシが館内に入ってくるのを防げるのかも。でも私はお宿の人じゃないからなあ。室内にいるカメムシを外に追い出したい気持ちはあるけど部屋の中でこんなもの吊るしたらカメムシが逃げ出す前に私がこの製品のにおいにやられて逃げ出すかも」
「そうねえ、どうやらさんバポナとかもダメだもんねえ。ところで宿の部屋にカメムシが出てくるってことは、どうやらさんが夫婦で泊まるのはそんなに高級じゃないところってこと?」
「まあ、そうです、私達が泊まるのはそれなりにお手頃価格なお宿です。一泊ひとり何万円もするような高級旅館だったらきっとお宿ですでにこういうカメムシ対策用品は導入してあってだから部屋にもカメムシそんなにいないんでしょうねえ、いいなあ、うっとり」
「だけど、ほら、どうやらさんの車新しくなってるから、遠乗りもきっとすっごく快適だよ。カメムシも気にならないかもよ」
「車の快適はたのしみではあるんですけど、お宿のカメムシは私の車が古くても新しくてもいるときにはいると思う」
「そりゃまあそうだけど、移動での疲労が少なくなるとカメムシに対する気持ちも山男のそれに近づくかもよ」
「そうでしょうか、そんなもんでしょうか、移動が快適でなおかつ宿にカメムシもいないのが私の第一希望なんですけど」
「そうだといいねえ、また帰ってきたら旅の話聞かせてね、写真も見せてね」
「はい、ありがとうございます、でも写真は撮る習慣がないのでたぶん一枚も撮らずに帰ってくるような気がしますが、そのぶん自分の目で見て脳内劇場に焼き付けていっぱいおぼえて帰ってきますね」
結果的に今回の旅先の部屋にもカメムシはいた。しかもけっこう大量にいた。しかし、たしかに新車の快適な乗り心地で気持ちに余裕があったおかげなのか、これまでの旅先でのカメムシ遭遇時に比べるとなんとはなしに心穏やかに対峙できたように思う。身体の余裕は気持ちの余裕、気持ちの余裕はカメムシに対する余裕。