部屋みっつ

念願のフウセンカズラ観察日記ふたたび。
風船収穫祭」ののち、収穫したフウセンをまず横方向、つまり断面を観察できる方向にハサミで切ってみた。フウセンの中はみっつの部屋に分かれている。それぞれの部屋に黒い種が中央に寄ってついている。
ではここで、今度はフウセンを縦方向に切ってみよう。フウセンには側面にとがった線とくぼんだ線が3本ずつあるのだが、尖った線が各部屋の屋根にあたる。その屋根を開くように屋根に沿って切れ目を入れる。ひとつひとつの部屋は言うなればバナナ型といったところだろうか。いや、中央線が縦に一本通って各部屋はその柱を共有しているから、バナナというよりはミカンの房(内袋)に近いだろうか。ひとつひとつの部屋の中ほどよりも少し上(茎に近いほう)に黒い種が固定されている。種は黒いといっても、固定されている部分が白いハート型なのだが、その部分が固定の位置にいる間は白い部分はあまり見えない。
みっつの部屋のそれぞれの部屋の中で種は全員、といっても各部屋に一個ずつで合計三個だが、同じ高さについている。部屋を外側から覗いたかんじは部屋の床(共有柱部分)に固定用のベッドがあり種はそこにじっと眠っているように見える。
職場でフウセンカズラの苗をくれた先輩に「種、むっちゃかわいいんですねえ。それぞれのゆりかごの中でくうっと眠ってるみたいに、それぞれの部屋の固定の位置にくっついていて」と話す。
「え、そうなん? そんなん見たことないけど、一個のフウセンから採れる種は三個やろ」
「はい。フウセンの中に部屋がみっつあって、それぞれの部屋の中に一個ずつ種がいるんですね」
「ああ、そういわれれば、たしかにそうかも。でもわたしはいっつもフウセンが採れたら、そのまま手のひらでクシュクシュって潰して、指の腹で粉を挽くみたいにして種だけ取り出していたなあ。そんな種の付き方を一個一個観察したことないわあ。どうやらさんは細かいところまでよう見てくれるなあ。苗を里子に出した甲斐があるわあ」
「そ、そうなんですか、よかった、ありがとうございます。で、種のハート型の白いところがフウセンの中央の種固定の位置にくっついてました」
「おお、そうなんや、あのハート型のところでくっついてるんや、なるほどねえ、それであそこだけ色が違うんやね」
「はい、種を外すと、白いところがっくっついていた部分に固定の台みたいなものがあるんです。種もかわいいけどこの部屋の構造がまたなんとも言えず愛らしいですねえ」
フウセンカズラもそれだけまじまじ見てもらえたら冥利に尽きたやろうねえ」
「だって今回人生初のフウセンカズラでしたから。来年からは私もそんな切開観察せずに、そのままクシュクシュって種取りすると思います」
それにしてもたくさんのフウセンを収穫し、その三倍の数の種が採れた。フウセンが80個あるとして種がその三倍の240個。実際には「風船収穫祭」のあと放置していた植木鉢にかなり秋が進行してもフウセンがなりつづけ80個より多い数の収穫となった。我が家の植木鉢でお世話できる苗は一鉢3名様まで、ふた鉢で6名様までだから、種まきして発芽させてうまく芽が出た苗を鉢に植えるとして、うまく発芽しない種があるとしても、一回あたり種は20個も蒔けば十分だろうと予想する。
種は直接植木鉢の土に植えるよりも、まず苗用の土に植えて、苗がうまく発芽してから本格的に植木鉢に植え替えたほうが生育がよいのだそうだ。
我が家の種を少しまた里子に出す予定はあるのだが、それでも240個の種が残るとして、毎年20個の種から苗を発芽させて使ったとしてもすべての種を使いきるまでに12年かかることになる。
つまり今回の午年にマイフウセンカズラ種を初めて20個発芽させて使い、その後毎年20個ずつ発芽用に種まきをして種を使っっていったとしても、すべての種を使い終えるには12年かかるということで、12年後、私はまた次の午年を、つまり還暦を、迎えるということになる。
しかもだ。毎年フウセンカズラを育てたならば、生育状況によるとはいえ、この調子だと毎年何十個もの種が採れるということで、今回収穫した種を毎回20個12年かけて使うのだとしても、毎年240個ずつ増えたのでは、全然減らないではないか。どうしたらいいのだ。
そして種はそんなに何年も、例えば12年もの年月を経てなお発芽できるものなのだろうか。
よーし、12年ものの種がうまく発芽して育つかどうか、還暦まで生きていたならレッツ・トライ。
そして私が他界したその暁には、私の棺には手持ちのフウセンカズラの種をすべて一緒に入れてもらい、フウセンカズラの種とともにあちらの世界に旅立つもよし、縁あって棺を覗いてくれたひとの中でご希望の方には、ひとつかみ、あるいはひとつまみずつお持ち帰りいただいて眺めてから捨ててもらったり発芽させて育ててもらったりする手はずを整えておくのもありかなどうかな。
通常は他界した人を見送る側が棺に花を手向けるものだけど、他界した側が見送る側の人になにかを、たとえば植物の種を、お渡しするのはありだろうか。地域や文化によってはお見送りのあとにお清めの塩を使うこともあるくらいだから、植物の種とはいえ棺の中にあったものを持ち帰るのは具合がよろしくないだろうか。でも形見分けの文化も世の中にあることを思えば植物の種を形見としてご希望の方はどうぞ、育てても育てなくてもどっちでもいいからね、というのがあってもいいようないいようなどうだろう。