下諏訪五葷道

夕方ホテルを出かけてお蕎麦屋さんへと向かう。途中にお土産物屋さんとおやき屋さんがある場所に立ち寄る。いろんなおやきがあるなあ、明日またここに来てどれか食べよう、と思う。
夕ごはんのお蕎麦屋さんでは玄関で靴をぬいで畳の上にあがる。お好きな席へどうぞと案内される。
メニューを見る。食べたかった馬刺しがある。やったー。山菜の天ぷらはないけれど天ぷら盛り合わせがある。あたたかいお蕎麦にも冷たいお蕎麦にも天ぷら蕎麦があるけれど天ぷら盛り合わせは2切れずつ供されるようなので二人で分け合うのにちょうどよい。
夫はざるそばを、私はおろしそばを。単品で馬刺し、しらすおろし、冷奴、天ぷら盛り合わせ、もろきゅう、だし巻き卵。
ざるそば以外は「ネギ抜き」でとお願いする。お店の方が「ざるそばに葱は付きますが薬味で別についてきますのでお好みに合わせてお使いくださっても残してくださっても」と説明してくださる。
「だし巻き卵には葱は入っていますか。鬼おろしがかかっていると書いてありますが鬼おろしとはなんですか」
「だし巻き卵も葱なしでお作りしますね。鬼おろしというのはですね、大根おろしなんですが、おろし金の目が粗くてふつうの大根おろしよりも大根が大きくおろしてあるんです、それが少し卵の上にかけてあります」
「そうですか、大根なら大丈夫です、では、葱なしのだし巻き卵をお願いします」
「念のため今一度確認させていただきますね、ざるそばひとつ、おろしそばひとつ、馬刺しひとつ、だし巻き卵ひとつ、冷奴、天ぷら盛り合わせ、ざるそばの薬味以外はすべてネギ抜きですね」
「はい」
ここで夫が「お酒を注文したいんですが、おすすめはどれですか」と質問する。お店の人は一瞬「う」と答えにつまるが「あの、わたしの個人的な好みでもよろしいでしょうか」と問い返す。夫は「ぜひ、そのほうがいいです」と言う。
「この地方のお酒は全般的に辛口のスッキリタイプなんですが、わたしはこれが好きで、あと、下諏訪唯一の酒蔵のどこどこさんが力を入れて作っているのがこちらなんです、これは他の地域ではあまり出回っていないかと」
「じゃ、それを一杯お願いします」
オーダーが厨房に通される。「ざるそばの薬味以外すべてネギ抜きでお願いします」「はい、すべてネギ抜きねー、了解ー」。
冷酒は升の中に小さめのグラスが置かれそこに一升瓶から注がれる。なみなみと溢れ升の中にもお酒がたまる。一口飲んだ夫は「わー、辛口だけど思ったよりもずっとやわらかい」と満足そう。
しらすおろしは丼たっぷりのしらすと「細かいぶつ切り」かと思えるようなあらびきの大根おろしに蕎麦のつゆと海苔がかけてある。それを大きな木のスプーンですくって小皿に取る。
馬刺しは赤身が多くスジが少ないふんわりやわらかタイプ。水菜が付け合せに盛られている。おろし生姜と豆板醤を好みでつけて食べる。馬刺しだけで食べてもおいしいが、生姜と水菜を一緒にくるんで醤油をつけて食べたほうがおいしい。夫はこれに豆板醤も追加する。
冷奴はざるそばのざるの上にのって出てくる。花かつおがかけてある。おろし生姜もたっぷり。夫が「ここのお店はおろし生姜の気前がいいなあ、大根おろしの気前もいいけど」と感心する。
もろきゅうは縦に半分横に半分に切ったきゅうりとマヨネーズともろみ味噌。卓上の升に塩と炒った蕎麦の実が入れてあるそのお塩をぱらりとかけて食べてもおいしい。
だし巻き卵がテーブルに乗った時、夫と私の動きが止まる。
「あの、この、卵の中の緑色のものは」
「はっっ。この緑色のものはっ。すぐに確認してまいります」
厨房で「卵に入っている緑色のものは?」「緑色? うわーーーーーっ。そうやったーーーー。六番さん全部ネギ抜きやったーーーー」という会話が交わされる。「すぐに作りなおすとお伝えして、はっっ、いや待って、卵が今もう数がない…」
その後なにやら厨房で小声でやりとりがなされたあと接客係の方がテーブルに来られ「誠に申し訳ないのですが、先ほどのだし巻き卵に間違って葱を入れてしまいまして、葱なしのものを作りなおしてお持ちしようとしたのですが、卵の在庫を少々切らしておりまして」
「そうですか、でしたら、だし巻き卵の注文はキャンセルで」
「いえ、もしよろしければ、お代はいただきませんので、今の玉子焼きの一部をサービスとして葱が食べられる方だけにでもお召し上がりいただくということにさせていただいてもよろしいでしょうか」
「え、いいんですか」
「はい、本当にすみません」
その後しばらくして先ほどのネギ入りだし巻き卵が先程と同じ量同じお皿で登場する。「このままお出しいたしますが、食べられるだけ食べてあとは残してください。本当にすみません。あと天ぷらとお蕎麦お持ちしますね」
そう言って引き返した店員さんに厨房の中の人が「もしかすると、葱がだめってことは玉ねぎもだめなんかな、訊いてみてくれるかな」と言う。接客係の人が来て「もしかして葱だけでなく玉ねぎもだめですか」と問われるので「はい、だめです、私は食べられません」と首と腕を横に振りながら答える。
しばらくすると厨房で料理を作っていた男性が天ぷらを持ってテーブルに出てこられ、「先程のだし巻き卵は本当にすみませんでした。こちらの天ぷらのここに玉ねぎがありますが、こちらも無理そうでしたら残してください」と案内してくださる。夫が「あ、ぼくが食べますんで、大丈夫です」と答える。
夫のざるそばと私のおろしそばが来る。おろしそばは越前のおろしそばとは見た目が異なり大根おろしは先程の鬼おろしで大根おろし以外に大量のしらすと天玉(天カス?揚げ玉?)と海苔がのる。越前のおろしそばは辛味大根というシャープな辛味の大根おろしと花かつおがのるのが基本だがここのおろしそばにははなかつおはのっておらず大根おろしの大根も辛くない。丼の真ん中に鎮座するきざみ海苔を夫に引き取ってもらう。海苔は食べても頭痛にはならないが食べるとうまく消化できず胃が固まったように固くなるようになったのでここ数年食べるのを控えている。夫はざるそばの上にたっぷり海苔をのせて「ざるそばがもりそばになった」と言う。
天ぷらは蕎麦のだしつゆにちょんとつけたり、卓上の升の塩をぱらりとかけたりして食べる。エビと玉ねぎとかぼちゃとなすとしし唐辛子。私はカボチャとナスとエビを食べた。夫がしし唐辛子(これも食べると頭が痛くなる、ピーマンやパプリカも同様)を食べてくれ玉ねぎも食べると言っていたから私もなんとなく頑張ってエビの天ぷらを食べたが、やはりエビを食べると「エビはもう卒業したのにまた間違って食べてしまった感」を覚える。おいしくないわけではないがおいしいとも言えない、以前はあんなにエビが大好きだったのに、こんなに食べてもハッピーではなくどちらかというと控えおろうな感覚がわくのはなんでしょうねえ、と思う。
最後に飲むそばつゆがこっくりとおいしい。さらさらすぎず、どろどろすぎもせず、蕎麦の味と香りがしっかりと移っている。お茶はそば茶。
時間が夕方になり、食べたものでちょうどよく体がひんやりとし、涼しく気持よくお腹がいっぱいになる。
夫は結局だし巻き卵は半分食べ半分残し、玉ねぎは二切れのうち一切れたべてもう一切れは残した。ちょうど私が食べなかったぶんを残した形で、注文した量としてはふたりで分け合うのにちょうどいい量だったんだなと自分たちの適切な注文量を称える。
暑い日のお蕎麦夕ごはんは涼しくておいしくて満足満腹。
蕎麦屋さんを出たら斜め向かいのコンビニエンスストアに立ち寄る。道路を歩きながら夫に「下諏訪五葷抜き、惜しかったけど、外食の五葷抜きの道はやっぱり険しいね」と話す。
「険しかったなあ。あそこで葱を入れようと思って入れたわけじゃないんだろうなあ」
「うん、もう、体がね、いつも作るレシピどおりにすうーっと動いちゃうんだろうねえ」
コンビニエンスストアでは夫はあまいトマトジュースを私はブルーベリーヨーグルトドリンクを買う。夫が棚を指さして「朝食のゆで卵は?」と訊く。「ゆで卵はないけどうずらの燻製たまごを持ってきてるよ」と答える。飲み物の棚を夫が指さして「ヤクルト、飲もうか」と言う。ホテルの部屋の冷蔵庫で冷やしておいて、5本パックのものを一本ずつ引っ張りだしては、ちびっとぐびっとヤクルトを飲む自分たちを想像するとなんだか豊かで愉快な気持ちになってきて「うん、買って買って、飲む飲む」と言う。
帰り道がホテルの前に通じるオルゴール通りになるとまたもや例の唱歌が聞こえる。「春の小川」「春がきた」「蜂が飛ぶ」「めだかの学校」など春っぽい歌が続くのだが夫に「これ何時まで続くんだろう、なんというか、しんどいよう」と訴える。
「うーん、6時までかな」
「今何時?」
「えーと6時半になるところ」
「6時までで終わってないじゃん」
「んじゃ7時までかな」
「うわーん、うわーん、朝は何時から始まるんだろう」
「6時かな」
「なんでー、いやー、そんなのいやー」
「なんとなく。おれ明日6時にはもういないし、何時からか聞いてみて」
「今日でおしまいでもいいのー。明日はもうこれ流してくれなくていいよう」
と話していたらぴたりと音楽が止まる。
「あれ、止まったよ」
「ほんまやな、消えたな」
「私が文句言ってるのが聞こえたんだろうか」
「6時半までだったんちゃう?」
「明日はイヤホンで音楽聞いて対抗してみる」
そして今朝は9時半頃から同じようにオルゴール通りで唱歌が繰り返し流れ始めたように思うがイヤホンでカフェードミンゴのクラシックに始まり清盛から花子とアンのサントラまで聴き続けたら唱歌は気にならず過ごすことができめでたしであった。