クジライルカショー

沖縄旅記録番外編

今回「美ら海(ちゅらうみ)水族館」を訪れた時に、野外で見たオキクジラとバンドウイルカのショー。
これまでいろんなところで、いろんな動物が披露してくれる芸を見たことがあるけれど、いつも、それなりに、上手だねえ、よく工夫されているねえ、と感心しつつも、常にどこか心の底で、これは、生き物としてまっとうなことなのだろうか、と、考え込みながら生きてきた。人間以外の動物に、人間が喜ぶための芸を仕込むこともだが、そのために、その動物を本来の生存エリアから引き離すことも、その動物に限定のあるエリア内での生活を強いることも、人類として行い続けてよいことなのかどうなのか、という迷い。ペットとしての動物や、盲導犬介助犬やセラピードッグなどのお仕事を担う動物に関しても、人間の都合に合わせてもらっている自覚はあるけれど、芸を担う動物達には、それ以上の迷いのようなものを感じてきた。
結論から言うならば、その迷いは今もある。けれど、今回、沖縄でのショーを見て、ひとつ明確に理解したことがある。それは、人は、誰かが何かを上手にすることを見て感心して褒め称えることが好きなのだということ。そして、自分が何かを上手にできることを見てもらうこと、そして喜んでもらうことも好きだということ。
人間以外の動物達が、自分が何かを上手にできることを、見てもらい喜んでもらうことが、好きかどうかはわからない。
けれど、「仕事」というものには、「好きかどうか」とは別の、誇りや愛や喜びが存在する。たとえ誇りや愛や喜びが明確でなくとも、その仕事に対する丁寧さや誠実さは、仕事を行う本人が意識していてもいなくても、わかる人にはわかるものだ。そして私は、この類のことに関しては、かなり感度の高いアンテナを持っている。
今回ショーを見せてくれたオキクジラとバンドウイルカと飼育員の人たちは、とても丁寧に誠実に仕事をしておられた。あの仕事が飼育員スタッフ全員の第一志望職業であったかどうかはわからない。バンドウイルカもオキクジラも自分で募集に応募してきたとは思えない。エンターテイナーとして暮らせば、大海で大敵に命狙われる危険はないかもしれない。けれども、気ままに泳ぎ暮らしたり、よりどりみどりで繁殖したりは、たぶんできない。限られたエリア内での、限られたメンバーでの、暮らし。それが彼らにとっての、第一希望の生き方かどうかは、わからない。それでも、あの場で仕事を担う人々は、人間もイルカもクジラも、全員がたしかに、丁寧で誠実であった。そして、メインを担うオキクジラの仕事には、たしかにそこに、愛と誇りと喜びのエネルギーが振動していた。私達観客を感嘆の渦に巻き込むこと、拍手しないではいられない気持ちにさせること、笑顔がこぼれてしまうこと、その全てを、あのオキクジラは、天命のような崇高さで、引き受けてくれている。芸歴26年の間には、数えきれないほどの、いくつもの不本意があっただろう。若いときに、もしかすると幼いときに、ともに暮らしたい群れの仲間と離れ離れになることを強要されたかもしれない。慣れない環境に身を慣らしてゆく調整や工夫はたくさん必要だったことだろう。そして、あれだけ高度な技術を身につけるまでには、途方もない訓練の積み重ねがあったはずだ。
第一志望の仕事に就くこと、第一希望の暮らし方をすることは、本意なことのひとつだ。けれども、仕事やそれに伴う暮らしにおいて大切なのは、自分がしている仕事や暮らしが、第一志望のものかどうか、ではないのだろう。仕事もそれに伴い暮らすことも、それが第一志望の形ではなくても、それを行い、なんらかの形で誰かに何かを提供する限り、それを丁寧に誠実に行うことが、大切なことなのだ。そして自分の「本意」がある状態で、場合によっては「本意」多めの状態で、仕事ができるそのときには、愛とまごころを込めて行うこと。愛とまごころを込めて行える、そのことの誇りと喜びを忘れずに感じること。大切なのは、きっとそういうことなのだ。
オキクジラさんの華麗で美しく力強いジャンプを目の当たりにしつつ、そのことに今一度思い至らせてくれてありがとう、ここに至るまでを生きてきてくれてありがとう、ここで時を共有する道を歩んできてくれてありがとう、極上の上質の匠の技に心震える機会をくれてありがとう、と、涙がこみ上げる。夫にバレないように、ハンドタオルで涙をぬぐう。