謙遜と観察記録

ある程度以上基本的生活が整っている状態において、「老いを嘆く」言動は、謙遜の文化と重なる部分があるのだろうか。

たしかにとりあえず衣食住は満たされているけれど、それでもどうしようもなくあらがえない「老い」という「のぞましくない事態」が自分にはあり、それを常に大きく意識しているのだから、満たされている衣食住はあくまでもささやかなのぞましさにすぎないんですよ、という謙遜(になっているだろうか)ということだろうか。
そして、自分にとって「のぞましくないもの」を頻繁に意識して口にすることで、「自分はもうこんなに不満と不安を十分に抱えているのだから、これ以上の不満や不安の要素は断固受け付け拒否するよ」という牽制の決意表明でもあるのかもしれない、ということなのか。

けれど、「よろこぶ」ことや「いやがる」ことは、容易に癖になりやすいから、「いやがる」ことを癖にしていると同じ状況でもまず嫌な部分が目につき気になるようになり、「よろこぶ」ことを癖にしていると同じ状況でもまず嬉しい部分が目につきありがたくなる、ような気がしている。

あるいは、「老いを嘆いている」と見えるものの多くには、実は「嘆き」はほぼまったく含まれてはいなくて、実は単なる観察記録報告なのかもしれない。
朝顔の芽が出ました」「双葉になりました」「高さ何センチになりました」「つぼみがつきました」というような観察記録と同じ要領で、「肌の張りが減りました」「無理が利かなくなりました」「ときどきあちこち痛んだりします」と自分観察記録を報告しているだけなのかも。そうかも。ちがうかも。