岳温泉5/1

今回の旅行のほぼ最大目的である夫の安達太良山(あだたらやま)行き。もともとは会津磐梯山に登りたいという話だったのだが、事前に情報を集めてみたところどうもまだ雪が多そうだなあ、和かんじきとアイゼンとピッケルは持っていくけれど、初心者だしなあ、とりあえず雪はもう大丈夫そうな安達太良山に登ってから考えてみる、ということになった。
この日は、私が眠っている間に夫は朝食のパンとゆでたまごを食べて身支度をして出かけた。
私は何度か目を覚ましては、ああ、そうだまだまだ眠っていいんだったわ、と安堵してまた眠る至福を繰り返す。もう起きたいなという感覚で目が覚めたのは十時過ぎか十一時前くらい。私の部屋のドアノブには夫が「お布団はそのままにしておいてください」の札をかけてくれているから宿の人は入ってこない。近隣の部屋ではお布団を片付けて掃除する音が聞こえる。
浴衣一枚に着替えて朝風呂に入りに行く。朝風呂といっても昼風呂だけど。昨夜のお湯とは違って、今日の露天のお湯は濁りが少ない。ここのお湯はその日の天候によってお湯の色や状態が異なるのが特徴なのだそうだ。
夫が山に持っていくためのステンレス製保温ボトルに宿の厨房で熱湯を入れてもらうときに、部屋の保温ポットのお湯も新しいものを入れてもらった。それがまだ熱いままだからそれで紅茶を入れて豆乳と混ぜて飲む。
月岡温泉で買った温泉まんじゅうの残りと月岡温泉せんべいとゆでたまごと、職場で仕事中に出してもらったけど忙しすぎて食べられずに持って帰ったお菓子をそのまま持ってきたものを食べる。
ごちそうさまでした、とテーブルの上を片付けて、実家の父にはがきを、夫の母に書簡を書く。書簡はもうずいぶんと古いもので、でも一応郵便番号が七桁になってからのものだけど、この六十円という値段のままなのか不明だから、あとで郵便局に行って確認してから投函しようと思う。
それからお布団の上に寝そべって福島県の地図を眺めたり、お布団を半分に折りたたんで部屋の隅においやってから畳の上でストレッチやヨガをしたりして、ごろごろと過ごしていたら、ドアをドンドンとたたく音がする。
「あー、おかえりー」
「ただいま。ガスで、なんにも、見えんかった」
「それは、それは、まあご無事でなにより」
「だーれもいなくて、ひとりっきりで、何も見えなくて、途中で登るのやめようかと思ったけど一応頂上まで行ってきた。やっぱり何も見えんかった。帰りにくろがね小屋っていうところによって温泉に入ってきた。この旅館のお湯も他の旅館やホテルのお湯も全部岳温泉はくろがね小屋のところから引っ張ってきてるらしい。もともとの場所のくろがね小屋のお風呂のお湯は、泉質はこの旅館と同じなんだけど、なんか、お湯がクリアというか澄んでるというか酸化してないというかとにかくよかった。あとピンバッジも売ってたから買ってきた」
「よかったねえ。ピンバッジなんて誰が買うんだろうかと思ってたけど、こんな身近にそういう人がいたなんてねえ。そういえばどうやらくんも、以前、アスパラくんのピンバッジが当たったときに『こんなん誰が欲しがるんや』って文句言ってたけど、いつの間にピンバッジが好きな人になってたんだろう」
「山に行くとピンバッジが記念品としてかさばらず重くもなくていいんよ。山に来てる人の中には帽子の縁のこのへんにびっしりとピンバッジをつけてる人もいる」
「うーん、なんだかそれは重そうだなあ。まあ念願の東北の山にとりあえず一個登れてよかったじゃん」
「うん、満足した。明日からどんどん天気が崩れるらしいし、今日登っておいてよかった」
「よかったね。では、もうちょっとしたら、一緒に岩盤浴に行きますか」
「はい、そうしましょう」
「その前に郵便局にも寄ろうね。どうやらくんの通帳も作りなおしてもらわないと」
「そうそう、あの通帳。ATMが自分で間違ってずれた行に印刷したくせに、次に入れて使おうとしたら間違ったところに印刷してるからお取り扱いできません、って、間違えたのはオマエじゃろうが、と思ったけど仕方がない」
それぞれに着替えたり片づけたりしてから宿を出る。宿の向かいが郵便局でそこに入る。夫は通帳を作りなおしてもらい、私は書簡の値段を確認してはがきも一緒にそのまま投函。
岩盤浴の前にお豆腐屋さんで豆乳を飲みたいと私が希望して、豆乳と豆腐とこんにゃくの味噌田楽の「いっぷくセット」を一人一個ずつ食べる。普段は豆乳や豆腐に対してあまり評価の高くない夫が「あ、おいしい」とつぶやいて食べて飲む。山でいろいろ消費するといろんなものが美味しく感じられるのかもしれないが、ここの豆乳とお豆腐は本当においしくて、三十円で売っているおからもとてもおいしそう。
豆腐のあとは近くのリゾートホテルの日帰り入浴を利用して岩盤浴。ここでの正式な名前は「陶盤浴」。大浴場入浴と陶盤浴九十分とタオル・バスタオル・陶板浴の床に敷く大判バスタオル・作務衣がセットで千二百円。
大浴場で軽く入浴してから作務衣を着て陶盤浴室男女兼用ルームへ。女性専用ルームもあるが、今回は夫と一緒なので男女兼用のほうに入ることにした。
横になってすぐにだあだあと汗がたくさん出る。そしてなにやら目の前がすっきりとする。疲れが取れた時特有のすっきり感。ああ、そうそう、岩盤浴ってこの感覚が岩盤浴ならではなんだよねえ、と思い出す。
制限時間は九十分だけれども、二十分もしないうちにかなりの汗をかく。いったん部屋を出て備え付けの椅子に座って水を飲んで休憩。また部屋に戻って横になる。あぐらをかいて座って脚の外側を温めたり、背中をぴったりとつけて脚を腕て抱えてまるまってみたりもする。岩盤浴は得意なほうだが、そしてわりと長時間入っていたいほうなのだが、ここの岩盤浴はなかなかにパワフルで、これは一時間で十分かもしれない、と思う。
途中でおじさん二人が入ってきて右隣に寝転ぶ。夫が「もう出る」と言うから「私はもう五分か十分してから出るね」と言うと「じゃあ、おれもそうする」と言ってまた横になる。
結局五十五分くらいで岩盤浴は終了。もう一度水を飲んでから、大浴場に戻る。宿泊先の旅館のお風呂と異なり、ここの洗い場や脱衣所は使い勝手がよくて快適。頭も洗って、さらに備え付けのドライヤーで乾かしてから帰りましょう、と思うくらいに快適。
快適な入浴を終えて待ち合わせ場所に行くと夫が「さっきの岩盤浴室に途中で入ってきたおじちゃんたちおったじゃろ。あのあと十分もせんうちに大浴場に入ってきちゃった」と教えてくれる。
と話していたら雨がざあざあと降り始める。宿までは徒歩四分くらいかかる。途中でまたコンビニに寄って翌朝用の食料を調達。少し小雨になった外に出て宿に戻る。
夫が今日はお腹がすいているから早く夕ごはんを食べたいと言う。「あんまり早いとお店が開いてないと思う」と私が言うが、夫は根拠なく「だいじょうぶ」と言う。
それでは、と出かけて夫が温泉街マップであたりをつけていた居酒屋さんに行ってみるがどこも営業時間前なのか休業日なのか開いていない。
「私は昨日と同じ釜飯でもいいよ。あそこなら今の時間も営業時間内だよ。今日は一人で一つ山菜鶏釜飯を抱えて食べたいな」
「わかった。そうする。でも、釜飯だけじゃ足りないなあ」
「じゃあ、ざるうどんを一個頼んでシェアしようよ」
「ああ、それおいしそう。でもなあ、馬刺しが食べたかったんだけどなあ」
「まあ、まだ旅は始まったばかりだし、馬刺しに出会う機会はまだあると思うよ」
前日と同じ釜飯のお店で、一人一個ずつの山菜鶏釜飯と二人でひとつのざるうどんを食べる。
宿で借りてきた傘があるけれど、もう雨はそんなに降っていなくて、傘をさす必要がない。
では、宿に戻って、明日はどこに行って何をするか、どこに泊まるか、などなど、ぼんやりと考えましょうか、予約ができそうならしましょうか、と話しながら部屋に戻る。
今回の旅の間にいい具合に馬刺しに出会えるかな、きっと出会えるね。