三川温泉5/3

関東地方では大雨だとか那須高原は土砂降りです、というニュースをところどころで見聞きしては、昨夜同じ宿に泊まっていたカップルは「今日は那須に行くんです」と言っていたなあ、雨大丈夫かしら、と思う。
私たちの道中も雨は雨ではあるけれど、身動きが取れないほどの土砂降りではない。身動きが取れないほどの土砂降りの時には車を駐めて車の中でフロントガラスに落ちる雨の粒を見続けて車の屋根に叩きつける雨の音を聴けばいいことなので、それはそれでたのしいけれど、走行中の雨は運転しづらいからご遠慮だ。
阿賀野川から少し新潟側に移動したところにある無人の道の駅に立ち寄る。売店には人がいるのだけど、観光資料などが置いてある小屋は無人でただ資料がいくつか置いてあるだけ。その中からこの近辺の宿泊施設情報がある資料を手にとって車に戻る。
三川温泉に順番に電話をかけてみよう、と、夫が携帯で電話をかける。一軒目も二軒目も満室で、まあね五月三日だもんねと話しながら三軒目で「はい、大人二名様、空いてますよ、大丈夫ですよ」との回答。
一泊夕食のみ朝食なしで一人八千円。「もう近くまで来てますので、三十分以内に行けると思います」と夫が言うと「そうですか」と宿の人はさっさと電話を切る風情で、夫が「あのっ、名前言っておいたほうがいいですよね?」と確認して「ああ、はい、そうですね、ではお名前を」と言われる。
私はさっき買ったクッキーもあるし、会津で買ったゆべしもあるし、そうそう燻製卵も買ったよね、うん、もう、これだけあれば朝ごはんは大丈夫、とそのまま宿に向かおうとする。
しかし夫は「ちょっとそのへんでパンがあればパンを買いたい」と言う。こんな辺鄙な山の中にパン屋さんはないんじゃないかなあ、と思うが、夫は「いや意外とふとあったりするじゃん、パン屋」と言う。そうかな、そういうものかな。
結局パン屋さんはなくて、代わりに「温泉まんじゅう屋さん」を見つける。夫は「明日の朝ごはんは温泉まんじゅうにする」と言って、温泉まんじゅうを買いに出る。
温泉まんじゅう屋さんから宿はすぐご近所でまもなく三川温泉にゅーゆもとに到着。
こんにちは、どうやらと申します、お世話になります、と挨拶して入館。年配の女将さんとは別の若い女性が女将さんに「ご案内のお部屋、桜、でいいですよね」と確認してから私達を二階の桜の間に案内される。
館内を歩く間に、ああここがお風呂なのね、そしてここがトレイなのね、という場所を通るけれど、それに関する案内は特になく、ただひたすらに桜の間へとたどり着く。
部屋に入ると係の女性が「浴衣とバスタオルはそちらに。あ、座布団持ってきますね」と一度部屋の外に出て、備品を入れてあるところから座布団を二枚出してきてくれる。「ではごゆっくり」とだけ言われるが、宿帳書いてくださいとも、お食事は何時頃にどこで、という案内もなく立ち去られる。座って卓の上の温泉まんじゅう(夫が朝ごはん用に買ったのと同じもの)を食べながら夫と話す。
「さっきおれが予約の電話したときも名前も全然聞かれんかったし、なんかそのへんは別にどうでもいいんやろうなあ、ここの宿は」
「まあ、私達、事前予約でもなく当日飛び込みの客だしね、いろいろ謎ではあるけど、まあ、館内施設の利用に関しては、だいたいの勘でなんとかなるしね。今の係の人発声が韓国語が第一言語の人みたいだったから、日本語であれこれ説明するのは面倒なんかもしれんね。それにしても、なんかこの部屋、きれいにリフォームはしてあるんだけど、なんだろう、なにかこう快適ではない何かが、うわっ、ひえーっ、ど、ど、どうやらくんっ、縁側に、縁側にっ、か、か、か、カメムシがーっ」
雨の降る外ではカエルがゲコゲコと鳴いていて、そして部屋の網戸や窓や柱や床にはカメムシがうごめく。
夫は「はいはい」と言って、手持ちのリーフレットカメムシをのせて、窓の外にぽんと出す。が、出しても出してもどこからか新たなカメムシが室内に現れる。
この部屋はきれいにリフォームはしてあるけどなんだろう、のあとに続くのは、きれいにリフォームはしてあるけれどカメムシのにおいがする、だったのか、とこの時気づく。
夫は「いいじゃん、カメムシくらい、別に噛むわけじゃないんだから」と言うが、私は旅先の宿の部屋の中にカメムシがいるのは苦手なのだ。カメムシのにおいも不快に感じるタイプなのだ。
夫は「カメムシもがんばって生きてるんだし、別にこちらが何か攻撃をしかけなければにおいを発するわけじゃないじゃん」と言う。
頑張って生きているかどうかで言えば、ゴキブリもムカデも頑張って生きているだろう。だが、彼らは害虫か益虫かで分類すると私にとっては害虫だ。私は自宅でも旅先の宿でもゴキブリやムカデには会いたくないし共同生活はしたくない。そしてカメムシもまた私にとっては間違いなく害虫なのだ、自宅においても宿においても。カメムシはそこに存在しているだけでカメムシ独特のにおいがすると私は思う。夫は「攻撃をしなければにおいを発しない」と言うけれど、こちらが攻撃するつもりはまったくなくても床の足元にいるカメムシを迂闊にトイレのサンダルで踏みつけた誰かがいるともうそれだけでトイレ空間はカメムシのにおいに満たされる。
カメムシとの共存が平気な夫と、カメムシとの共存は是が非でも避けたい私とが、果たして本当に快適な共同生活や旅のご一行としてやっていけるのだろうか。結婚十八周年(たぶん)を目前にしてなにやら基本的なところに不安を覚えるそんな夕方。