お湯のあとに春のカメムシ5/3

夫が先に温泉に入ってくると言って大浴場に出かける。三川温泉のお湯はどんなのだろう。
お風呂から上がってきた夫に「お湯、どうだった?」とたずねる。
「すっごい、ふっつーのかんじ。熱くないからゆっくりは入れる」
「そうなんだ、ふっつー、なんだ」
「うん、クセがないといえばそうだけど、おっ、これはっ、いいぞっ、というような波長ぴったりなかんじはないな」
「温泉って波長あるよねえ。どんなに有名でも自分の身体との相性というかそのときの自分の身体との波長が合ってないとぐったり湯あたりしちゃう。でも波長の合うお湯だと入れば入るほど自分が整うかんじがして何度でも入りたくなる」
「そういう意味で言えば、ここのお湯は湯あたりはしないけど、何度でも入りたいほどかというとそうでもない」
「そうか、私も入ってくる」
「今女湯にはおばちゃんが三人くらい入ってはったから、ゆっくり入るんなら少し後にしたほうがいいかもよ」
「そうなんだ、じゃあ、そうする。で、どうやらくん、あのね、あそことあそこにくっついてるカメムシを外に出してほしい」
「はいはい」
しばらくしてからお風呂に入る。夫が話していた三人組のおばちゃんがもうじき上がりますよ、なかんじで入浴中。
実際にお湯に浸かってみると、たしかに熱くもなくぬるくもなく、それほどパンチも強くなくでもただの水にはないまろやかな力はあるが、このお湯を求めてまたわざわざここに立ち寄るかというと、私の身体に関してはそれほど強くここのお湯を渇望するわけではないなあ、というかんじ。
三人組のおばちゃんは三人仲良く上がってゆき、私は一人でのんびりと入浴を続ける。浴場の窓から三川温泉をぐるっと見渡せる。湯船の淵に腕を置いて顎をのせバタ足ほどには激しくなくゆらゆらと両脚をお湯の中でゆらす。
お風呂を上がって脱衣所から廊下に出ると、ほわーんとカメムシのにおいがする。うう。階段や廊下の壁にカメムシがくっついている。だから部屋のカメムシを外に出しても出しても出しても、他のところからまたカメムシが入ってくるんだな。そしてきって部屋からカメムシを出しても出しても出しても、部屋の中の見えにくいところに潜んでいるカメムシがたくさんいて彼らのにおいがずっと漂っているのだろうなあ、うう。
部屋に戻ると夫はテレビで広島の試合を見ている。
「お風呂、どうだった?」
「うん。クセがなくて入りやすかったよ。わざわざリピートして入りに来るかというとどうかなあとは思うけど」
「そうやろ。でも、男湯で一緒になったおっちゃんは富山からきた人で、けっこうちょくちょくここに来るんやって」
「へえ、富山からかあ。まあ新潟よりの地方だったら車で気軽に来れるのかな」
「なんかそのおじちゃんは昔このへんで仕事してたことがあるらしい」
「ああ、じゃあ、それで馴染みがあるから気分的にも近いんじゃろうね」
「そうやろうなあ。そのおじちゃんが今この近くの津川温泉で『狐の嫁入り』イベントしてるから面白いからぜひ見に行けって言ってた」
狐の嫁入りは私もこのへんの観光パンフレットさっき見た時に気になってた」
「じゃ、明日は狐の嫁入り資料館でも行きますか」
狐の嫁入り、って、雨が降ってるのに一時的にぱあっと晴れることを言うんだっけ」
「うん、たしか、そう。富山から来たおじちゃんは『ここの旅館はいつ来ても空いてるのがいいんや』いうて言うてはった」
「それはね、カメムシがいっぱいいるから、お客さんが敬遠するんじゃないかしら」
「そんなカメムシカメムシ言うけど、ここで発生してるってことは他の旅館でも発生してるって」
「だとしてもね、カメムシが入るがままにするかどうか、カメムシが館内にいるがままにするかどうかで、宿の快適度はずいぶん違うと思うのよ」
「そうかなあ、オレはカメムシは気にならんけどなあ」
「そうやって、どうやらくんみたいな人が宿を経営する側の人だと、こういうカメムシ放置のお宿のままで平気で、カメムシを気にしないそのメンテナンス力が私のようなカメムシに弱いお客さんにダメージを与えるんよ」
「そうかもなあ、そうかもしれんなあ、ムカデはイヤやけどなあ、カメムシは平気やなあ。そういえば、食事は何時からどことかなんにも聞いてないけど、どうしたらいいんじゃろうか」
「そのうちなんか連絡あるんじゃないかな。なかったらそのときにききにいこうよ」
それから夫は野球観戦を続ける。私は浴衣を羽織って畳にごろりと寝転んで簡単なストレッチをする。
そうやってごろごろしていたら、部屋に案内してくれた女性が「失礼しますー」と来られて「夕食のお膳を入れてもいいですか」と言われる。「はいお願いします」と頼む。
お膳には山菜の天麩羅とおひたしと白和と百合根のあんかけそれから会津でも見たミガキニシンの山椒漬けなど他にもいろいろのっている。係の方が「何かお飲み物のまれますか」と言われて、夫が「日本酒の熱燗を一本」とお願いする。
もうこれですぐに夕食が始まるのかなと思ってお膳の前に座ってみたが、十分経ってもお酒は来なくて、今のこのお膳はただの準備だったのかしらね、天ぷらは冷めるけど、というかすでに冷めているけれど、まあいいやね、と、私は元の場所に戻ってごろりとしてストレッチを続ける。夫はお膳の前に座ったままでテレビを見る。
お膳が来てから二十分くらいが経った頃だろうか、先ほどのかかりの人が「すみません、おまたせしましたー」と言って冷えたキリンビールをお盆にのせてもってこられる。
「あの、ビールではなくて、熱燗を頼んだんですが」と夫が言う。係の人は「あっ、すみません、部屋間違えました。ビールはおとなりの部屋でした」と言って出て行かれる。夫が「あのっ、栓抜き忘れてますよ、栓抜き」と言うが係の人はすでに隣の部屋で「ビールおまたせいたしましたー」と言っていて、私が夫に「どうやらくん、大丈夫だよ、栓抜きは廊下にたくさん用意しておいてあったから、ここの部屋にあってもまだまだ栓抜きの数には余裕があるから」と伝える。
それからまた十分くらいして「日本酒おまたせしました」と熱燗が運び込まれて「いただきます」と食事を始める。夫は日本酒を、私は十六茶を飲みながらの食事。私が天ぷらをそのまま食べていたら夫が「塩味ついてる?」と問うてくる。
「ううん、たぶんあとで塩か天つゆがくるんじゃないかな、でもこれだけでも山菜の苦味がおいしいよ」
「天つゆを待つ」
しばらくすると天つゆと鮎の塩焼きが運び込まれる。その後、鯉のアライ、タラバガニ、ご飯、お漬物、お味噌汁が運ばれる。
ゆっくりと食事を終えたのち、しばらく待つがお膳を下げに来られる気配はない。通常であれば食事が済んだらフロントに内線で電話しろなどの案内があるのだがそれもなく、かといってその連絡をするには、なんだか館内に妙にあわただしそうな音がたちこめていて声をかけるのはやめておこう、都合がいいときに来てもらえればそれでいいや、ということにする。
夫は外で煙草を吸ってから、そのあとお風呂に入ってくると、しばらくの間出かける。
私は部屋の卓の上でハガキを書く。今回の一連の旅の流れと、今も部屋の蛍光灯のところにカメムシがいてそれがいつこの卓上に落ちてくるか、卓上の湯呑みの中に入るかと思うとドキドキハラハラしてちっともくつろがないくつろげないという内容。とハガキを書き上げたのを見計らったように、蛍光灯からカメムシがふんっと落下してくる。ひとりきりの部屋でひょーえーとおののいて卓から離れる。カメムシは湯呑みの中にこそ落ちなかったものの卓上に置いてある私の十六茶のペットボトルにぴたりとくっつく。書き終えたハガキの端っこに追伸で「カメムシが落ちてきたー!」と書き加える。
カメムシからの距離を置いてひっそりと過ごしていたら、宿の人が部屋に入ってきて「お膳下げてお布団敷きますね」と今度は二人組で仕事をこなしてゆかれる。宿の人はカメムシがくっついたペットボトルにもまったく動じることなく、あるいはまったく気づくこともなく、二人で卓を抱えて部屋の隅によせ、連携プレーで布団をのべる。宿の人は「失礼しましたー」と出てゆかれ次の部屋へまた次の部屋へと忙しく作業を続ける気配。
その後夫が戻ってきてから「どうやらくん、私の十六茶のペットボトルについたカメムシを外に出してください」と頼む。夫は「ぷぷぷ。やっぱりカメムシもみそきちの友達なんじゃろう。虫って必ずみそきちのほうばっかりに行くもんなあ」と言いながら、ペットボトルのカメムシを窓の外にぽんと出す。網戸の外には何匹かのカメムシが張り付いていて部屋がずっとカメムシ臭。
カメムシのにおいに弱い私はどんどんといろんなものが消耗する。英気を養うべき宿で体力気力が奪われる。これはもう寝よう、と思うものの、寝ている間に自分の口の中にカメムシが入ってきたらどうしよう、と思う。夫は「そのときには噛まずに飲み込め」とまったくわけのわからない助言にならないことを言う。
カメムシはつらいが、敷ふとんと掛け布団と枕は今回の旅で泊った宿の中では一番快適だ。夫も「ここはサービスはもうひとつだけど不思議と布団はいいなあ」と言う。
私が横になった布団を見た夫が「しっ。じっとしろ。動くなよ」と言う。私は即座にそれが私の布団にカメムシがついたという意味だと理解する。私がじっと固まっている間に、夫がリーフレットでふとんをなでてカメムシをのせて窓の外に出す。「さっきから天井にいるなあとは思っていたけど、天井から布団に飛んできたカメムシ、俊敏やったなあ」と夫は感心している。私はますます寝ている間に口にカメムシが入ってこないようなうつぶせ寝態勢を研究する。
私が少しうとうとし始めるかなという頃に布団に入った夫が「ん、なんか、この部屋、におう?」と声を出す。
「だから、夕方から私ずっとそう言ってるじゃん。この部屋に入った時からずっとずっとカメムシのにおいがしてるじゃん」
「これって、カメムシのにおいなんだ。みそきちのおならかと思った。ちがうんなら、いいや」
そう言って夫は寝息を立てたが、私のおならなら気になるものがカメムシのにおいなら気にならないというのはどういうことなのか。それに私のおならはやや香ばしい穀物が発酵したようなにおいはするがカメムシのにおいはしない。
カメムシに対しても夫に対しても、なんだかいろいろなんとなく憤懣やるかたないない思いがぐるぐると渦巻く夜。