逃げ出す朝5/4

三川温泉での宿泊は、なんとか無事に口の中にカメムシが入ることもなく、たとえ入っていたとしてもそれに気づくこともなく、眠ってそして朝を迎えた。
部屋の保温ポットは昨夜布団を敷いてくれたときに宿の人が茶器とともに新しくしてくれたがお湯は既にぬるくなっている。かといって階段を降りて玄関の奥の厨房まで新しく熱いお湯をもらいに行くのは面倒くさい。こんなときに活躍するのが携帯湯沸し器。電熱器のようなものをぬるいお湯の中にぽちゃんとつけて電流を流してお湯を沸かすもの。水からであればずいぶんと時間がかかるが冷めたお湯からであればまあまあ早めにお湯が沸く。
沸騰した熱いお湯で紅茶を入れて豆乳を混ぜて飲む。温泉まんじゅうと燻製卵で朝食とする。
そのときリリリと部屋の電話が鳴る。夫が出る。相手が何か言う。夫が「いえ、朝食なしで予約してるんで」と言うと、相手が何か言って、そして電話を切る。
「なんて連絡だったん?」
「大広間に朝食のご用意ができましたー、って」
「それで、朝食なしで予約してます、って言ったんやね」
「そしたら、昨日と同じで、すみません部屋まちがえましたー、って」
「うーん、富山のおじちゃんがいつ来ても空いてる宿ではあるけれど、この宿の人たちなりに連休でお客さんが多くて忙しくていろいろ仕事が追いつかないのか回らないのか、それともいつもこういうかんじだからいつ来ても空いている宿なのか。まあ、そういうわけでね、昨日から私ずっとカメムシに対して警戒態勢をとってきたから、ずっと知らず知らずのうちに緊張しててね、これ以上の外泊は苦しいから、今日のうちに家に帰れたら帰ってもいいかしら」
「うん、いいよ。うちの布団に慣れてると外の布団は体圧分散がされてないなあって実感するもんなあ」
「一応途中で力尽きた時には、どこかに泊まろうと思えば泊まれるように荷造りはそれようにしておくから無理はせずに移動できるところまで移動ということで」
「そうしよう、たぶん帰れると思うけど、運転で力尽きた時には直江津とかそのへんで泊まってもいいし」
「うん、もしも泊まるときには、カメムシがいないところで」
それから荷物を片づけたりいろいろしている間、私たちの奥側の部屋から大きな声が聞こえる。家族構成としては、父と小学校低学年の息子と母と祖母だが、母と祖母の会話はおそらく北京語で父と息子は日本語で。母は日本語も話す。彼らは大広間での朝食からなんだかすごい勢いで部屋に戻ってきてまもなくまたもやすごい勢いで部屋を出てチェックアウトしていった。
静かになった廊下に出て、洗面台で歯磨きを終えて、トイレに行く。ここのトイレは二階の部屋四室で共用で、女性用は和式便器と洋式便座とか一個ずつある。そのときの気分で洋式を使ったり和式を使ったり両方してきたけれども、その洋式の便座の上にうんちが付着している。な、な、な、なぜだ。今朝さっき見た時にはそこになかったものが。カメムシパワーでやられているところに便座のうんちパワーが追い打ちをかける。ふらふらとしながら和式便器を利用して部屋に戻る。
「どうやらくん、女性トイレの洋式便器の便座にね、うんちがついてる、というか、のってる」
「みそきち、しおしおのぱー、やなあ」
「これまでいろんな宿に泊まってきたけど、ここのくつろがないくつろげないレベルはかなり高い」
それからさっさと支度をして、チェックアウト。夫が会計をしてくれている間に車を近くに運んできて、荷物を車に入れる。会計のときにもやはり名前や住所を聞かれることもなくチェックアウト完了。
このあとは夫の希望でイチゴ狩り。朝ごはんを宿の食事を食べずに自分の手持ちの菓子などだけにしておくと旅先で食べ放題イチゴ狩りができるのがうれしい。
夫と私の旅の荷物の中にもしかするとカメムシが潜んでいるのではないかという、いやんな気がかりも抱えつつ、三川温泉をあとにする。