偽善について考える1

そういえば「偽善」ってなんだろうなあ、と考えだしたところ、自分が実はこの語彙をあんまりしっかり把握も理解もしていないことに気づく。自分の理解語彙と使用語彙のうち使用語彙ではないとは思っていたが理解はしているつもりでいたのに実はたいして理解もしていなかったようだ。実際暮らしている中で自分や他人の言動に関して「あっ偽善はっけん!!」と思うことはほぼまったくない。自分が興味のある分野しか見ていないせいもあるのかもしれないが。
私が個人的に関わる人の中でも特に私が自分の意志をもって懇意にしている(それがたとえ一方的なものであるにしても)人々は基本的にはいい人だ。そして私も含めて各自それぞれに「ぱっきりと善とは言えない側面」もそれはそれであたりまえに併せ持つ健全さがある。かといってそれが善悪の悪に相当するかというと別段悪というほどのことではなく、どうしても便宜的に善悪というスケールで計測するのであれば善の目盛は小さいか限りなくゼロかごくわずかに悪側に入るかなあどうかなあ、なあたりのことのように思える。
成績表の「優」「良」「可」「不可」でいうなら「可」と「不可」の間にあるものが「偽善」なのだろうか。
日本語用法として「偽善」という語彙が用いられる場面を私なりに思い起こしてみるとき、他者に対して「偽善」だと言ったり思ったりする基準は「善悪」にあるのではなく自分の「好悪」「好きか好きでないか」にあるように感じる。それは要するに自分にとっては「気に入らない」という意味であり、相手に対して「おまえはそれを『いいこと』だと思ってやっているのかもしれないがあまりにも浅はかでバカにせずにはいられない、愚かなりっ」というような心情が沸々と湧き上がる状態だろうか。
日本語用法としては他者に関して何かを「偽善」だと思い言う以外に、自分の何かに関して「これって結局偽善なのではないか」と自問自答もしくは他者が見聞きする状態で言うケースもあるように思う。その場合の心情としては基本的には「そんなことないよ」「それでもいいじゃん」という承認を得たい心情があるのではないか。その承認は他者によるものでも自分の中の承認部門によるものでもよいが、少なくとも「うんっ、それは間違いなく偽善だねっ」「恐れ入りました、お見事な偽善に感服いたしました」というような反応を求める心情や想定はないと予想する。だが、他者からも自分の中の承認部門からも「それは、まあ、偽善の側面はあるのかもしれないね」という心情があるものとして自分の偽善を省みるのは「自分は自分の言動を手放しで善だと決め付けるほど浅はかではなく自省的で思慮深く謙虚である」ことを表明したい底意がある場合もありそうなそんな気が。
と、かように「偽善」がよくわかってないみたいだなあ、と気づいたこの機会に、偽善者度合い診断などでもしてみればもう少し偽善の理解に近づけるかもしれない、と思い挑戦してみた。我ながらこういうところはなかなかに勉強熱心である。が、私が利用したものはどれも全体的に設問の内容があいまいすぎて即答できないか選択肢の中に選ぶものがなく自分の選択肢を自分で作るか便宜的に選んだ上で注釈を付ける、という回答となった。
次回以降に各設問と回答を列挙していく。