カメムシと評価

「他人の(他人からの)評価」というものに関しては私はどちらかというと「気になる」機能が低めで「気にする」習慣が少ないほうかもしれない。好評方面の評価(相手や内容にもよるが)を感知すればうれしく感じることが多いが、「他者からの評価」は、「評価」だけでなく「心情」も、それはただそこに「在るときには在る」ものであって、私がどうこうするものでもどうこうできるものでもない、そういう関係性のものだと割りきっていてそこには絶対的な距離があるような気がしている。私の何かで誰かが愉快になることも誰かが不愉快になることもそれはそう感じる人の問題としてその人にお任せして委ねる。誰かが何かを思うようにあるいは誰かが何かを思わないように私が誰かの心情やジャッジ判定のお世話をして差し上げることはない。たとえば私が誰かのことを攻撃して貶めたと感じる人がいたとしても、私は自分のことも自分以外のひとのことも常にけっして攻撃することも貶めることも茶化すこともないと知っている人は知っていて、その知っている人のうちの筆頭のひとりが自分自身であるから、あらぬ勘違いをした人にはその勘違いはその人の責任において抱いてもらう。誤解だったと気がついてその誤解から解きほぐれる段階のあらゆる手間暇もそれに伴う各種気持ちの面倒くささもその誰かの度量のようなものに委ねる。誤解が解けないまま誤解の中にいることも誤解は誤解と認識しても解きほぐれない心情の中にいることもあるときにはあるだろうがそれもその人に委ねる。私はそのことを嘆くわけでも憂うわけでもなく、ただただ私にとって本意ではない勘違いや誤解や思いがけず相容れないなにかがそこにあることあったことに対する残念な気持ちを私の責任において自分の度量において粛々と受け止める。自分がそれを受け止めるにあたり下痢や嘔吐や頭痛や皮膚炎その他各種不都合な身体症状が現れることもあれば、こころが痛いと感じることもある。自分では感知し得ないレベルで細胞の破壊に至るケースもありそれが後になんらかののっぴきならない病として現れてくることもあるだろう。そして粛々と受け止める渦中においてはただひたすらに昏昏と眠る必要に迫られることもある。それらもろもろ一式はある程度は人生のセットメニューであるからそのときそのときで対峙対応するしかない。そうしながらなお日常を日常として暮らし仕事を仕事として行い大切な人を大切に思い接しその中で味わうことを味わうだけの丈夫さをそれまで以上に太くしてその後もそれを保つべく励む。
だが人によっては「他者からの評価」を気にしようと思わなくても気がついたら自然と気になっている、気になって気になってしかたなく気がついたら自分が誰かの思惑をどうにかしようどうにかしたいと思いが巡って止まらないということがあるのかもしれない。
というようなことを考えていて、ということは、もしかすると、夫にとっては全然気にならない気にする対象ではないむしろ同じ生き物として彼らもがんばって生きているんだから彼らがそこにいても別にかまわないではないかと主張するカメムシという存在が、私にとっては気にしようと思わなくても気がついたら気になっておりその存在を排除せねばと躍起になりカメムシがそこにいるかぎりその存在とにおいが気になって仕方がない自分の安寧が得られないという現象は、「他者からの評価」が気にならない人と気になる人の性質の差に似ているのかな、とふと思う。
カメムシ(他各種害虫)に関しては「保健衛生」という概念上その存在を気にしようよ、気にして外に出そうよ、中に入らないように工夫しようよ、と私は思う。
夫はカメムシのにおいがしたときに私に対して「みそきち、おならした?」と責め口調で言うものの「私のおならじゃなくてカメムシのにおいだよ」と言うと「なーんだ、そうなんだ、ならいいや」と言う。私のおならに対する攻撃性とカメムシのにおいに対する寛容性のその差はなにに由来するんだろう。
「他者からの評価」というのはにおいがするわけではなく、そこにあるからといって気にして紙の上にのせてぽんっと外に出すものでも、外から中に入ってこないよう工夫するものでもないが、なんらかの対策ができるものであると仮定して気にするとしたらどのように取り扱うことができるのだろう。
やはりただそこに「在る」ものとして、ああ、あるんだなあ、と、一定の距離をもって対峙すれば対峙する、気づかなければ対峙しようもない、というあたりが順当な気がするのだが実際は各人各様いかようなのだろうか。
私はカメムシがそこにいることをあきらかに「気に病む」。カメムシが自分の居住空間(短期滞在空間であっても)にいることは本意でなくカメムシがいないと本意でありそのことで一喜一憂する傾向はある。ということは「他者からの評価」に対しても「気に病ん」だり「一喜一憂」したりする取り扱いも可能なのかもしれない。
もちろん「他者からの評価」と「カメムシ」は別物だが、気にする人や気になる人にとってはその人なりの正当な理由や「あるべき姿」のようなもの、私にとってカメムシがいない屋内で過ごすことが「あるべき姿」であるように、なにか「あるべき姿」や「ありたい姿」があるということなのかもしれない。
そして私が夫に対して、カメムシの存在を気にしない彼の姿勢に対して、いくばくかの立腹に似た感情を抱くように、「他者からの評価」を気にする人はそれを気にしない私の姿勢に対して立腹に似た感情もしくは明らかに立腹の感情を抱くのかもしれない、という想像を私に促したのはカメムシの私に対する数少ないお手柄と言えそうな気がしてきた。
誰かからの「評価」を得たくて、誰かからの「評価」を得るために何かをすることと、自分が特定の種類のエネルギー(よろこびなどにつながる何か)を提供し循環させたくて何かをしてその結果「評価」がついてくることは、どこがなにが異なるんだろう。
それにしても人の「評価」というのはカメムシのようにニオイがしないのがいいと思う。カメムシはこちらが一定の距離を保とうとしても勝手に飛んできて湯のみに入ったりするが、人の評価は飛来して湯のみに入って飲み物を飲めなくしたりなどすることなくこちらが一定の距離を保つと決めさえすればその距離が保たれるのはカメムシと違って非常にいいところだなあ。